静寂は日常でそれを厭うたことなどなかった。
聞こえるとしたらそれはいつも単調な祝詞と、やかましい説教と、そんなもので。
だから、知らなかった。
世界はこんなにも音に溢れてるって。
音
ウェイトレスの仕事をしていると、実に様々な音が耳に入る。
筆頭はお客の喋り声。
いろんな人の声が折り重なって、時には苦しいくらい、だけど。
それはとても生きているって、感じで。この上なく心地よい。
他にも色んな音がある。
例えば包丁を動かす音とか、鍋が火にかかる音とか、そんなもの。
そして、声。彼の、声。
2人で口論する時の声と、私を呼んでくれる、静かな声とか。
そんなものが当り前のようにありすぎて、一人に耐えられなくなった。音のない世界が、恐ろしくなった。
過去を見る目を持って生まれた。見たくもない人の過去を、土地の過去をたくさん見た。
過去を見る神子として育てられた。静かに、ぽつんと崇められ、それ以上に民を崇めて生きてきた。
感情などある方が空しい。ずっと、そう思っていたのに。
今、私を取り巻く音をなくすことは怖くて。
今―――静寂に包まれる病室に、泣きそうになる。
ぼうっと目の前のベッドを見つめる。その上で横たわる、同居人を見つめる。
いつもはレストラン兼酒場の店主をやっている同居人は、たまに昔のよしみで荒事の始末を引き受ける。
―――まぁ、武行さんがどうしてもって言うしな。
彼はその度にそう言って、その過去の職場から誰かしらを連れてくる。それは友人とも言える少女だったり、面倒見の良い女のヒトであったり、良く知らない人だったりもする。
共通点は、彼がかつて信頼を寄せ、今も求められれば助ける仲間であるということだけ。…私を一人で留守番させるのはまだ心もとない、らしい。
自衛の手段を持たぬ私に下す判断としては、妥当なのだろう。妥当だと思っても、ずきずきと胸がきしむ。……ああ、私は仲間ではないのだと。庇護の対象でしかないのだと。
そんなこと、あまりに身勝手すぎて、言えやしないけれど。
寂しくて悔しくてどうにかなりそうだ。怪我をして眠っているこんな姿を見せられては、なおさら。
『別に大怪我して眠ってるわけじゃない。傷の方はかすり傷だよ。疲れたから休みたいっていったと思ったら、ベッド一個占拠された』
だから、君が迎えに来ると良い。
顔なじみからそう言われて来て見れば、腕に包帯巻いて眠っている。
かすり傷ならそんなものはいらないのではないのか。
思いはするけど―――たぶん、そういうもの、なのだろう。
ぼんやりと彼を見つめる。
こげ茶色の髪と、日焼けした顔と、大きな手。
いつもと何も変わらないその姿は、目を閉じている、というその一点が違うだけでひどく儚い。
儚いし――――静かだ。
静寂など慣れたものだったはずなのに、嫌に耳に痛い。不安だ。
ぎゅうと拳を握る。
起きて。そんな風に、眠っていないで。起きて。
そんな風に、死んじゃったみたいに眠らないで。
そんな風に癇癪を起して、泣いてしまえばいいのだろうか。
けれど、そんなもの聞きたくない。
聞きたいいのは、ただ彼の声。
小さく唇を動かす。音を出さないように、気をつけながら。
すると、それと同じタイミングでごろりと寝がえりを打った。ついで、ゆっくりと身を起こす。
びく、と肩が跳ねる。起きて欲しいくせに、いざそうなると気まずい。
けれど、ぱちりとその眼が開いたとき、覚えた感覚は間違いなく安堵だった。
「………あぁ」
彼の口から、寝ぼけた声が漏れる。
電話口で聞いてから、三日ぶりに聞く声。たった三日なのに、なぜか懐かしい声。
「…セレナ?」
「なんで疑問形なんですか。…おはようございます」
「おはよ…ってじゃねえよ。こんなとこでなにしてんだ」
「ぐーすか寝てる邪魔なライドを引き取りに来いって、紅也さんが」
努めて静かにそういえば、ぴくりと彼の片眉がはねた。
「……邪魔で悪かったな」
「私に言わないでくださいよ」
「紅也に言ったら馬鹿にされるじゃねえか」
「私だって馬鹿にしますよ? ホント、馬鹿ですよね。ライドは。
消息不明になったと思ったら、次は寝てるんですから」
その間に、私がどんな思いをしていたと―――なんて言えない。
そんな理不尽な恨みごとじみたことなんて言えないのに、喉が詰る。
のどが詰まって、なにかが緩んだ。じわりと目の前が歪んだ。
慌てて目元を拭おうとして―――ぱしっと手を取られた。
「…お前さあ、もしかして寝てないんじゃねえ?」
「へ?」
間の抜けた声は、図星をさされた気まずさゆえではない。めったに見えなせない真摯な視線を感じたせいだ。
「クマできてる。いらねえ無理すんなよ」
怪我人に心配されるほどじゃありません。
言おうとすると、本当に泣いてしまいそうで。泣くのが嫌で出た言葉も、嗚咽に等しい湿っぽいものだった。
「だって、あなた、ホント、連絡つかなくて。帰るって電話来た後、3日も」
「…悪かったって」
彼の顔が変わる。不機嫌そうな表情から、気まず気に。
…怒ってくれればいいのに、勝手なこと言うな、って。
「今も、このまま起きなかったら、どうしようって、それしか考えられなくて」
「そっか」
「それで寝ろとか無責任なこと言わないでくださいよぉ…」
いつのまにかぐすぐすと嗚咽が漏れる。みっともない上に、ひどい話だ。
全部、私が勝手に頼って、勝手に心配して、それだけなのに。それこそ疲れて帰ってきた人間にする話ではない。
「…そっか、なら、今は、それでもいい」
今は、と。そう言われる理由は知っている。いつ自分がいなくなると分からないから、そう言う。その時は、どうにかしろと、そんな風に。
腕を斬られてもかすり傷。3日も姿を消してもそんなこと。そんな風に、諭しながら。
私は黙って頷く。必死に頷く。
だって、不服だったわけじゃない。黙っているのは、ただ、口を開けば泣き叫びそうだったから、なにも言えない。
「…セレナ」
黙ったままでいると、声をかけられた。しかたないなぁ、と言いたげに。
それに答える前に、ぐしゃぐしゃと髪を撫でられる。かと思うと、ぎゅうと抱きしめられた。ついで、ぽんぽんと背を撫でられる。あやすように。ぽんぽんと。
「……」
こんな風な子供扱いは嫌いだ。
けれど、今は離れる気が起きなかった。
確かに熱をもった胸元に耳を寄せる。
その奥から、とくん、とくん、と音が聞こえた。
これ以上優しい音を私は知らない。
これほど安堵する響きなど、それまで知らなかった。
「セレナ」
「…うん」
彼の声が響く。静かに響くそれに、意味もない相槌が漏れた。
「…ただいま」
「………おかえり、なさい」
これほど愛しく響く声など、私は知らなかった。
あなたに会うまで、知らなかった、のに。
止まらない涙が、馬鹿みたいだと笑えた。