目が覚めると、相棒がいなかった。
 昨日、友達と遊ぶからとでかけていった相棒。遅くなるからから気にせず休んでいてと連絡をよこした相棒。彼女はどうやら一晩かえらなかったらしい。
「………」
 気を、つかわせてしまったのだろうか。
 例え届かずとも、彼女を傷つける気のする言葉を、鈴はそっと呑み込む。
 気を、つかわせただけではないだろう。
 そのこともきちんと分かっていたから、彼女は黙って台所に向かった。

 昼食を作るために住宅スペースに戻るついでに、郵便受けを見る。
 夫の仕事用ではなく、生活用の小さなその中に、須堂咲子は桃色の包を見つけた。
 つるりとした包装紙に包まれたそれには、小さなメッセージカードと、花束が添えられていた。
「……鈴」
 小さく娘の名前を呼び、柔らかに目を細める。
 いつもありがとうございます。槙太さんと食べてください。
 いつの間にやら夫とよく似た細い文字を書くようになった養子は、母に感謝を示す風習がある日、こうやって贈り物を送る。
 去年は、手縫いしたらしい可愛らしいポーチ。今年は、小さなマグカップに作られたムース。
 母に感謝するその日、感謝の気持ちをくれる。
「……」
 咲子さん、と。困ったように。母とは決して呼べぬことを、悲しむような顔で。毎年。
「…別に、わたしは」
 あなたが幸せになるのを見てられたら、呼び名なんてどうだっていいのにね。
 一度聞かせたきり、2度と紡げなくなった言葉を、そっと紡ぐ。愛しい娘が泣いてしまうから、繰り返すことはできなくなった言葉を、何度も。
「―――ねえ、あなた。鈴からムースいただいたけど、なに飲みたい?」
 僅かに眉を寄せた咲子は、小さく頭をふり、夫にそう声をかけた。


 副業帰りによったという元相棒現恋人にお茶を出した祐絵は、それまでの作業に戻る。
 ぱちん、と赤い花の茎を落とす彼女に、彼は驚いたような顔をした。
「…花、飾るのか?」
「そんなに珍しい?」
「珍しいだろ。しかもそれ、買ったのだし」
 床に広げたままだった店の包装紙を指差す拓登に、祐絵はああ、と頷く。
 確かに、自分がたまに花を飾るのは、いつもバイト先のもらいものだ。部屋を飾るものを自ら求めることは、ないと言ってもいい。
「わたしのためじゃないもの」
「は? じゃあ、誰だよ」
「あげるの。わたしがあげるわけじゃ、ないけど。家の人達があげるというから、わたしも出すの。…家にいる子達じゃ、たくさん花を買えるお金なんてないし」
「…ああ…、だから今日、か」
「ええ。だから今日。もうすぐ、買い物の帰りの子たちが来てよってくれる。その子達にもあげるから、お菓子、残しておいてね」
「……だなあ」
 拓登はふ、と眼差しを和らげ、二つ目の焼き菓子に伸ばしていた手をひっこめる。彼女の実家と言うべき孤児院の、小さな子供達を思い出すように。
「…………――――」
 ああ、そんなもの。
 気にしたこともなかった。
 小さな小さなその呟きに、祐絵は何も返さない。
 答えを求めるどころか、漏らしたことすら気付いていないだろう男は、それきり黙って茶をすすった。


 腕いっぱいに抱えた花を、とん、と灰色い石の前に置く。
 両親の眠る場所を、白い花で飾る。
 ほの甘いその香りを胸一杯に吸い込み、舞華はゆるく息をつく。
 ―――今年こそ、相棒はちゃんと実家に帰っているといいのだけれども。
 自分がいては、彼女は母の日を祝う気があっても祝えないだろう。
 彼女がこの日を祝えない理由は、両親を亡くした自分を気遣っているだけではない。もっと、深いところに。あの二人を決して親とは呼べない、その理由と同じなのだろう。
 だろうけれども、拍車をかけているのは、確かだと思う。
 だからこの日、彼女はふらふらと町を歩く。だけどこの日、彼女と顔をあわせていられない理由は、やはり違う。
「―――ねえ、母さん」
 私ね、今日も、元気だよ。
 強くなったとも思うし、悪いこともしてないの。
「…ねえ、かあさん」
 もしここにいたら、私を褒めてくれたかしら。
 決してかえらない答えを想い、舞華は顔をゆがませる。
 決して嬉しがることはないだろう母を知っているから、胸の中は苦い。
「……かあさん、とうさん……」
 この日、彼女と、誰とも、顔を合わせられない理由など。
 昔、この花を一輪しか買えなかったその頃の幸せを思い出してしまうから。
 ―――大きくなったら、もっといっぱい買ってあげるの。
 ―――やだ、充分なのに。
 そんな風に笑う母を、思い出してしまうから。
 ―――でもそうね、舞華がそういうなら、母さん……、
「…待ってるって、いった、のに……っ」
 うそつき、となじる言葉は、嗚咽に交じる。
 顔を覆って泣きじゃくる舞華を見るものは、誰ひとりいなかった。

目次

 唯一母の日ネタをできる人達がうす暗いことに気付きひどく微妙な気持ちになりながらも母の日ネタ。
 母親というのをいまいち分からないまま大事なひとだけ増えた娘と、母親に最初から特に感慨のない人達と、白い花しか送れない娘。
 もう一人メインにいるけれども彼は母の日を気にもかけないでしょう。兄は母のことを気にしていないけれども、彼は気にしたくないから。ということで何もない日すぎて除外と言うあれです。