よろしく、と告げた唇は、それきり静かに閉じられた。
 握った手は、かたく鍛えられた、戦う者独特の手だった。
 こちらを見上げてくる瞳は、なんの感情も伺えない、無機質なモノだった。
 けれど。
 ああ、綺麗だな、と。そう思った。
 ずっと、それだけであれば。俺はそれなりに幸せだったのかもしれない。

 あの、なんだかわけのわからないうちに巻き込まれ、なにやら知らないうちに解決してしまった騒動に巻き込まれた後―――俺は、少し物悲しかった。
 元より少ない客が、さらに減ったからだ。
 手持無沙汰にグラスを磨いていると、いつまでも溜息が洩れて来る。その時。からんころん、とドアベルが鳴った。
 本日一号目の客に、俺は思わず目を輝かせる。
「こんにちは…ってまた誰もいませんね」
 だが、入ってきたのは、微妙な客だった。
「…どっかの誰かと大暴れしてから、休業多かったからなぁ」
「そ、れについては悪かったなぁと思わなくもないですけど。過去に囚われちゃだめですよ拓登さん!」
 調子のいいことをまくしたてて、舞華はカウンター席へ腰を落とした。
 …鈴がいないところをみると、仕事関係のあれやこれではないか。この間のような例もあるけど。…金落としてくれるならどちらでもいいけどな。
「…ところで…」
 注文を告げた後、舞華はおずおずと口を開く。
「成冶さんに聞いたんですけど…」
 …へぇ。仲悪そうだったけど、案外頻繁に会うんだな。あの成冶も人と付き合うことを覚えたのか…いいことだ。
「拓登さん、恋人いるんですか?」
 前言撤回。何話してんだあのガキ。どういう流れでそんな話になるんだ。あと、こいつもやっぱりあんまり来ない方がいい。
 話す義理はないが、黙っているようなことでもない。何ともいえぬ心地を感じつつ、俺は小さく答えた。
「…いたら、なんだ」
「お堅く見えたから意外だっただけです。…どんな人ですか?」
 わくわくと書いてあるような顔に、知らず溜息が洩れる。
 胸を張っていうな、そんなデガバメ発言。とか色々言いたいこともあったが、静かにケーキを切り分ける。
 けれど感じる。すっごくモノ言いたげな視線。…無視するには少々鬱陶しい。
「まぁ……女だな」
「そこから入るんですか?」
「髪は銀色で。目ぇ青くて。背がちっさいよ」
「…そーゆーことじゃなくてですねぇ」
「薬剤師のマネゴトや臨時講師や食堂のウェイトレスとかしてる」
「…そーゆことより、馴れそ」
「お客様、ケーキセットでよろしかったでしょうか。また、度々言っていますが、店内ではお静かに」
 言葉を遮って、どん、と盆を置く。
 むっとしたように唇を尖らせて、それでも彼女は黙々とケーキを食み始めた。つくづく色々素直なガキだ。
 しかし。
 …馴れ初め、ねぇ。
 思い出すのは、はじめてであったとき。
 これから組む相手だと紹介されて、握手を交わした、あの時。
 あの時、ただ感じたのは、綺麗な女だなということだけで。
 当時恋人がいたからか、他の理由か…今のような想いを感じることはなかった。けど。
 ああ、綺麗だなぁ―――と。
 あの時感じた想いは、褪せることなく胸に留まっているのかもしれない。
 たとえ。その姿が、赤い血にまみれようと。綺麗だと。そう思っていたから―――……
 ゆるりと目を閉じる。瞼の裏に浮かんだのは、「馴れ初め」と言えるであろう出来事のことだった。


「ほ…」
 声が、かすれた。
 動機が早まり、手にじっとりと汗がにじむ。
「…本城!」
 駆け寄り、抱き上げた身体は、彼女自身の血に濡れて。
 元より白い顔が、まるで……
「死ぬな馬鹿!」
 悲鳴のように叫ぶ俺に、閉じられていた瞳がゆるゆると開かれる。
 青い。いつもガラス玉みたいな。その瞳が、確かに俺を捉えた。
「……あいざき」
 その声が名を呼ぶ―――呼吸を続けている。そのことに、少しだけ冷静さを取り戻す。
 半ば千切れかけた足が、それでも繋がっているのは…そして、出血を止めているのは、彼女自身の治癒の魔術のお陰だということにも、やっと、気付いた。
「……効き、が、遅い、の」
 それだけ聞けば、十分だった。やることは、決まった。
 血濡れの身体を抱え上げて、ひたすらに駆ける。
 僅かに俺の手を握り返した指の力だけが、暗くなっていく意識を唯一引きとめるものだった。

 ―――なんて、想いを、したのに。

 治療が終われば、当の本人は、まるでいつもと同じ様子で、こちらを見てくる。
 魔物へ食いちぎられた足は、くっついたけれど…もう、元のように扱えないというのに。
 その白い肌に、目を覆いたくなるような傷痕が増えたというのに。
 いや、そんなことは、こいつには関係ないと知っていたじゃないか。
 確かにその足は、もう元のように扱えないけれど。それは、あくまで、魔術に関わる時のみ。魔術による強化を、受けなくなる呪い。それがあの傷の後遺症だと聞いた。つまり。
「やめるわ、この仕事」
 つまり、こんな仕事、止めてしまえば。普通に暮らしていくには、問題ない。…いや、それさえも、違う。
「復帰は難しいわけでもないんだけど」
 それでも、こいつは強い。リハビリと治療を繰り返せば、ある程度元通りになるだろう。
「無理してしなくても、生きていく自信はあるから」
 いつもとまるで変わらない朴訥とした表情で、女は言う。
 俺は、なにも言えなかった。
「わたしを助けてくれたのは、あなたのそうね」
 けれど、それを気にした風もなく言葉は続く。
 いつものことだった。
「ありがとう」
「…相棒だからな」
 やっとのことで絞り出した声で気づく。
 ああ、己は悲しいのではない。怖いのだ。
 相棒だから。
 今まで一緒にいたけれど。
 相棒だから。
 こいつが警軍を辞めると言うなら、会う理由はなくなる。
 それが怖いけれど―――…きっと。少し前より弱くなった彼女が戦場にい続ける方が耐えられない。

 居た堪れない心地のまま、悪かった、と言おうとした。
 けれど、答えが予想出来て止める。
『なぜあなたが謝るの?』
 そんな風に真っ直ぐに見詰められることが分かるから、できない。

「…責任とらなきゃなぁ。女にそんな傷作らせた、さ」
 代わりに口に出せたのはどうしよもない軽口。
 今さらそんなことを気にする女ではないと知っているから、そうした。
 なのに。
「とってくれるの?」
 なのに、あっさりと返された言葉に息がつまった。
 今、お前はなんて言った? 訊き返すことすらできなかった。
「なら、付き合って」
 言葉は続く。甘さも戸惑いもなく、揶揄も嘘もなく真摯に。
「あなたがわたしの男になれば、言い寄ってくる男を断るよい口実だから」
 もしも。
 その提案に、ふざけるなと怒鳴れていたなら。なめるなと愛想を尽かしていられたら。
 あるいは。
 好きだ、と。だから口実などと言わないでくれと告げていたなら。
 俺は、今、こんな思いをしなくてもよかったのだろうか。
 隣にいるのに。恋人と言えることをしているのに。
 それでもこいつは、俺がまるで好きでないのだと。
 それでも俺は、こいつが不思議なほど好きなのだと。
 そんなどうしよもないことに、ならずにすんだのだろうか――――……


「―――ごちそーさまでした」
 軽く手を合わせる音と、明るい声に意識が冴える。
 お粗末さまと頷くと、不思議そうな顔をされた。
「…なんかボーっとしてました?」
「いや、客呼び戻す方法考えてただけ」
「あ、やっぱなにもなきゃ、もう少しいるんですね?」
「…………ああ」
「…なんか、すごく間空きましたけど?」
「い、いや。空いてねぇよ」
「そーですか?」
「そうなんだよ」
 言い返すと、舞華はくすくす笑った。
「じゃ、そーゆーことにしておきます」
 信じてないだろ、お前。
 口に出そうとして、止める。
 カランコロン、と、ドアベルが鳴ったのだ。
 そうして現れた正真正銘の客に、俺は本心から笑みを浮かべた。
 身体の奥に、なにかが刺さったような感覚を抱えながら。


 荒い終えたカップを、きゅ、とふいて、棚へしまう。
 一日の業務を終え、疲れる時間帯。だけれど、今はひたすら心地よい。久々に客が来た。そのほとんどが常連だったけれど、それが離れていかなかったことこそが、今は心地よい。
 ああ、このまま軌道に乗ればいいなぁ、そうすれば、俺はもっと穏やかな心地で暮らしていける。たぶん。
 テーブルを拭くための布をしぼって、そんなことを思った瞬間。
 背中でベルが鳴り響いた。
「…はい、相崎です」
『拓登』
 カウンターの内側に据え置いたそれから聞こえたのは、高い割にやたらと落ち着いた声。
「祐絵…なにかしたのか」
 なにもなくとも、声が聞きたくて―――なんて、こいつにはあったためしがない。案の定、声は淡々と続いた。
『お肉をもらったの』
「誰から」
『食堂のオーナー。だからあなたも来ない?』
 一緒に食べましょう、という誘いに、思わず頬がゆるむ。
 こいつは、見た目ほど食わない奴ではない。いただきものの肉くらいなら、食べてしまえるはずだ。なのに誘ってくるという事実が、滑稽なほど嬉しい。
「…今から?」
『できれば。明日からちょっと忙しいのよ』
「…ふぅん」
 相槌を打つ。けれど、答えは最初から決まっている。
「じゃ、行くわ。なんか買ってた方がいいもん、ある?」
『別にいらないけど。あなたが食べたいものがあったら買い足してくればいいと思う』
 言うなり、がちゃりと電話は切れる。
 そっけないにもほどが、それもまた彼女らしい。
 そっけないし何考えてるか分からないしいっそ不気味なくらいクール。
 それが俺の知る本城祐絵であり、不満には思わない。
 そんなあいつが、綺麗だと思った。
 けれど、そんなあいつが好きだと思ってしまった時から―――心のどこかに、その願いは燻ぶる。
 どうか、同じものを。返してはくれないだろうか、と。
 それがかなわないと、俺はもう知っているけれど。それでも良いと思っているけれど…でも、未練はあって。
 もはや沈黙するだけの受話器に、そっと触れる。
 けれど、その思いを口にすることはないだろうと、自嘲しながら。
 傍にいるだけなら、この関係の名前などいらなかったのだ。
 好きだと思ってしまったから、じりじりと胸が焼ける。傍にいるだけでは足りないのだと。
 そうしていつか――…きっと道が離れる。
 そのことを、まるで見てきたことのように知っている。妙に生々しい予感として、口を重くする。
 だから。
 ただ、今は。
 願うなら、このまま。もう少し、曖昧なまま、あいつの傍にいたい。

目次



あとがき
 ―――届かぬ思いだとしても、それはひどく甘く優しい。
 月夜〜のエピローグにいれたかったエピソード+アルファ。
 どーせ望みないんだ―みたいなこと言ってるけど、わりとラブいと思うんですけどね。温度差すさまじいけど。それを承知で好いているのだし。本人もわりと幸せなんですけどね。
 なによりわりと気遣いあってますしね…らぶらぶですよたぶん。
 2010/02/27