一方。とっととホールの喧騒から抜け出してきた芹野智華は非常に不機嫌だった。
 一人になりたくて来たのに、ついてくる無粋な人間がいる。これが不愉快でなくなんと呼ぶのか。そんな気持ちを吐き出すようにふっと軽くため息をつき、振り向いて呼びかける。
「…なぜついてくるのか教えてくれますか? 望月さん」
「ああ、なんだ気づいてたんだ。つまらないね。
 ―――ねぇ、少し話しに付き合ってくれない?」
 にっこりとどこまでも朗らかな笑顔で笑いながら玲人は言った。
 智華は暫し迷った後、黙って頷く。

自動販売機の横に置かれた椅子に腰掛けながら、話とやらを聞くことになった。
「東君に見つかったら殺されそうなシュチレーションだねえ」
 玲人が苦笑する。
 はたから見れば、年頃の男女が仲良く座っているようにしか見えない。
「気を病むならお話とやらを手短にどうぞ。…今はとりあえず撃ってきませんけどね、銃持ってませんから」
 玲人が『濃厚☆百パーセント大根ジュース』とかいう謎の飲み物を飲んでいることの方がむしろ気になると思いながらも、静かに返す智華。
「話って言うか、お仕事なんだけどね。オレ、前…聖那に拾われるまでは情報屋してたんだよね。
 聖那に会ってからは廃業したんだけど、今もたまにそれを知らずに来る仕事とかあるんだ」
「そうなんですか」
「で。面白そうなら今も受けてる。それで貴女に訊きたいことができたんだよ」
 ぴっと突き出されたのは写真のコピーと思わしきもの。
 画質が少々悪いが、一人の少年が写っている部分のみ切り取ったもののようだ。
「この子、見覚えない?」
「見覚え…はあります。けど……」
 心から驚いた。
 結わずに流れるままの肩にかかるほどの黒髪。青と黒のオッド・アイ。発育途中の少年らしい体躯。綺麗な顔立ちに楽しげな笑みを浮かべる少年。
「これ、誰ですか?」
 その少年の容貌は東遥霞とよく似ている。
 そして、それがよく似た他人ではなく、数年程前の遥霞だということを、智華はよく知っている。
「オレの依頼主が探している人。」
「それ…私に関係あることのように聞こえませんけど。見せられたってこんな子知りません。
 もしかしたら依頼人というのが遥霞の生き別れの兄弟だったりするんですか? それなら私ではなく彼に言うべきでしょう?」
「残念だけど、違うんじゃないかな? 依頼人は憎い相手を探しているそうだよ」
 玲人は言って、思わせぶりに一拍置き、
「『藤崎遥霞』という人物を殺したいほど憎んでいるそうだ。字は遥か彼方のハルに霞みたなびくのカスミ、で、遥霞」
 智華がその言葉にぴくりと眉を動かす…ような分かりやすいことはなかった。表情を動かさずに、
「そうですか、それがこの写真の子? 穏やかじゃありませんね」
「見覚えある顔って言ったよね」
「ええ。そっくりの顔をした人を知っています」
 どこから手に入れたのかはしらないが、確かたる確証などないはず。それなら無理があろうと、あくまでしらをきろう。そう思い淡々と答える。
「そっくりですむ顔? オッド・アイってのも珍しいのに?」
「それはそうですね。…それと名前も同じですね。それに他人とは思えないくらい似ているのは、確かです」
 僅かに訝りを込めて答える。といっても演技だか。
「本人、は否定?」
「ええ。この年頃の彼も知っていますが、もっと髪が短かったですよ。もしかしたら、遥霞の隠し子という説もありえます。…はっきり言って腹立たしいですけど…あれの手の速さは私が身をもってよく知っています」
 遥霞が聞いたら『俺は君一筋だもん』とか泣き出しそうな内容だ。
「それも中々楽しそうだけどね」
 でもこれじゃあ年の計算に無理があるんじゃない? にっこりと笑って続ける。
「もう少し芹野さんには関係ない話を続けようか。依頼人はね、『kana』っていうんだよ」
「それがなにか?」
「色々調べてみたら、本名は芹野華菜。十九歳の大学生。金髪碧眼の美人さん。」
 ―――え…………?
 その名は。決して他人の口から聞くはずではないもの。智華が捨てた過去の欠片。
 動揺し混乱する胸のうちを読んだかのように、碧の目に愉悦の色が浮かぶ。
「大学からして頭は悪くないらしいけど、口が軽すぎる人だな。
 ここでオレがなんの手がかり手に入れられなくても諦めそうな口振りじゃなかったんだよねえ…あんまこっちを甘く見ると、いつか痛い目見ると思うんだけど…箱入り娘にこんなこと言っても無駄だろうね、他人のオレじゃ。
 ねえ―――まだしらを切るの?」
 滔々と流れる声。
 冷たい水を浴びせられるような錯覚。
 会話が途切れた。
 智華は混乱した意識の片隅で、どこか冷静に呟く声を聞く。
 ―――そんなに大きくなったんですね、あの子…
 思い出す。凍えた胸のどこかで、捨てて来た過去が熱を帯びる。
「……」
 返す言葉が見つからない。
 智華はため息一つの後、諦めたように言う。
「……それで、あなたは教えたんですか。遥霞のこと」
「あれ? 聞きたいのそれだけ? 
 …彼女が彼を憎む理由、気にならない?」
「それはあなたに教えてもらうものじゃないでしょう? 本当に知っているのは、彼女だけです」
「へぇ、あっさりしてるんだねえ。
 あんた達のこといくら調べようとわからなかったあたり、さすがと言うべきなんだろうけど……ツメが甘いな。人の口ほど軽いもんはないのに」
「そんなものはこちらの勝手です。
 …口止めはいりませんよね…? あなたも死んだはずの人間、ってクチでしょうから、下手に顔は出せませんね」
「なんだ。知ってたの、つまらない」
 まるでそうするのが負けだとでも言うように、互いに目線をそらさない。
「…オレは依頼人に彼がやたらむやみに熱愛してる女の人のことは一言も言ってない、安心していいよ」
 そちらの方が、面白いからですか? 
 言いかけた言葉を飲み込んで、告げる。
「私は、守りますよ」
 なんの動揺も虚勢もない表情。飾らないからこそ真摯な表情。
「自分のことなどどうなろうと、あの二人は?」
「分かったようなことを言わないでください」
 湖水を思わす瞳の深さが増し、視線が鋭利に研ぎ澄まされる。
「私は何を犠牲にしようと、誰を殺すことになろうと。遥霞だけは守ります」
 滑り落ちたのは、淀みも迷いもない声。
「…それはそれは。お熱イことで…。弱い犬ほどよく吼えるねぇ」
 玲人は驚いたような顔をした。けれどそれほんの一瞬。すぐに笑顔に戻る。
「貴女がそこまで執着するのは、なぜかな。彼は貴女のなに?」
「そんなもの私が言わなくともあれが常時連呼してるでしょう? 
 私としても特に訂正を入れる気はないんですよ? 一度飼い始めた犬は最後まで面倒をみるのが飼い主の責任でしょう。
 …それとも、独り身男のひがみですか?」
「それはないね。ひがむほど女好きじゃないし?」
 立ち上がり、心底楽しそうに言う。
 じゃあねえ、とひらひらと手をふり言いたいことだけを言い尽くして帰っていく。
 ―――勝手な方。
 長身痩躯の後姿を見送りながら毒づく。
 胸にはひたすら苛立ちだけがつのる。目の奥が熱くなる。
 どうして。
 どうして、今更その名を。
 私はもう死んだ人間。それでいいと思ったのに―――
 違う。
 それでいいとは思っていない。
 それを捨てても欲しいと思ったものがあった。だから、
 ―――会いたいと思うのは……
 それは我侭だ。それでも考える。
 彼女を、妹を止める方法はなんだ? 
 今の自分は死んだはずの人間。下手には動けない。顔は見せられない。もし仮に話したところで、彼女を激昂させるようなことしか言えない。
 このままなにもしなかったら、彼女の身になにが起こるかわからない。
 なにもなくとも、できれば『殺したいほど憎い』などという言葉を使う人生を送って欲しくない。
 彼女をとめられるのは誰? 誰も、いない?
 その真実が情けない。
「…弱い犬、か…」
 じっと見つめていた手に力をこめる。半端に冷めたコーヒーの缶が軋む。
 この手は確かに非力だろう。嫌になるくらいに非力だ。
 自分がもしも強かったならば、遥霞を守れただろうか。流れていく紅を止める術すら持たず泣き喚く、そんなことは無かっただろうか。
 いささか多すぎるような気がしたあの痣の所以を強く問いただすこともできただろうか。
 危険なことに平気でつっこんでいく人々を見て、なにもできない歯がゆさを味わうことはなかっただろうか。
 ぎちり、と缶の軋む音は心を表すかのようだ。
 ―――強くなりたい。
 強さがあっても望むものを手に入れられはしない人を見てもその想いは絶えることを知らない。
 単なるエゴだと知っていても、守るだけの力がほしい。
「………一人」
 固く引き結んでいた唇を開いて呟く。
 ―――華菜を止められてなおかつ…遥霞のためだとでも言えば尽力を尽くす人間が…一人。
 協力してくれるかもしれない人間に思い当たる。
「………」
 どこかぼんやりとした心地で智華は自嘲する。
 ―――こんなことを汚いことを考えているようでは、もうあの子の姉なんて名乗れません。 



 廊下にやや気の急いた印象の足音が響く。
 真っ直ぐに伸ばした背に長い黒髪をなびかせ、迷いなく。待ち人に向かって歩く。
 ちゃちゃな作りでも浴衣などというものに袖を通したのはずいぶんと久しぶりだ。
 希羅は思う。
 こんなものを着て、髪を下ろしていると、なんだか自分がどこにいるのか見失いそうになる。時間を見失う。
 錯覚する。あの家にいた頃の心が蘇る。だから、
『後で、少し、話に付き合ってくれませんか? ―――澄生のご令嬢』
 試合が終わりすれ違いざまに小さく呟かれた言葉は嫌に響いた。
 だから、その呼び名を出されて、断れるわけがない。
 そんな自分を嘲るように、咽喉の奥だけで笑った。

 人気のない廊下に背を預けながら、希羅は丁寧に言う。
「それで。私になんのようですか? 古凪の御曹司」
「とりあえずそれをやめてください。…僕はあんな場所とは縁を切ったんです」
「だって、他に呼び方が浮かびませんから。これ以外にあなたと私の繋がりはないでしょう?
 …たいだい、十年前一回あっただけ、しかも父のおまけの私のこと、よく覚えてましたね」
「そうですね、その通りですし、別にあのように会う機会があったのは貴方だけではありません。
 けれど、人の家の生垣破壊してその竹突きつけて勝負しろ! なんて言ってくる破天荒というかなんというか…貴女の様な人は他にいなかった。
 だから印象に残っただけです」
「なに? …私そんなことしたの?」
「ええ全く。」
 希羅が清々しいくらいに即答する。
「…それでよく覚えてましたね、僕のこと」
「そういえば足払いで勝負を決めてくれたくそムカツク赤毛がいたっけ…と思い出しました」
「そんなことを言われても困ります。勝負にならなかったんだからしょうがないでしょう」
「そーゆーこと真顔で言うあなたがまた嫌いになりました」
「…そうですか」
 紅也はふっと息をついて頷いた。
「それで結構ですよ。別に君に好かれたいわけじゃない。訊きたいことがあるだけです」
「そう。答えられる範囲でならば、お答えします」
 丁寧でありながらやたらと気のない返事をする希羅を、紅也が見据える。
 無機質な翡翠の瞳の持ち主は、静かに問いかける。
「…澄生の次期宗主は―――いえ、貴女の父君、澄生恭一様はご存命ですか?」
「ええ。勿論。…私の父上はどーにかなるほど年喰ってないわよ、失礼ねえ」
「…ならば、解せません。なぜ貴女は家を出たのです。…いいえ…あの方は止めなかったのですか?」
「…んであなたにそんなこと訊かれなきゃならないわけ?」
 不機嫌さを隠さずに告げる希羅に対して、紅也は暫し躊躇うように沈黙した後、
「…貴女の父親とは、あれからも会う機会があったのですが…その度にてんこもりに娘自慢を聞かされました」
「は? なんですかそれ」
「………『うちの娘の身長が伸びた』とか『剣の筋がいい』とか『あれは母親似だからきっと綺麗になるのだろうな、いつか嫁に出さなきゃいけないと思うと泣きたくなってくる』果ては『でもあの子を幸せにするのは死んだ妻との約束だからそれが私の生き甲斐だ』ですよ?
 …十年前ですよ…十の子供に対してする話ですか、これ」
 影を背負って実に恨めしそうに言う。
「その後に訊いてもいない奥さんとの馴れ初め話はじめられて僕はいったいどこからつっこめばいいのか…」
 ―――父上…そんなことしてたんですか…
 自然と遠い目をする希羅。
「話がそれましたね。…だから、ともかく…よほど大切にされていたのだなと思っていたんですよ。
 そんな方が裏家業なんぞに関わっているのが不思議だと思ったんです」
「それはわかったけど。どーして私が父上の言うこと聞く前提で話進めるわけ? 
 父上と私、実は仲悪かったかもしれないとか考えてくれないかしら。過保護親父なんてごめんよとか考えてるのかもしれないでしょう、普通」
「…嘘でしょう」
「嘘じゃないわよ。…だって、それが理由だもの」
「…その割りに、今もずいぶんと恭一様を慕っているように聞こえますね。
 僕は父上なんて単語自体もう何年使ってないか…」
「なぁに? あなたは人の価値観は自分の価値観と一致すると思ってるの? とんだ高慢ヤローね」
 かるく鼻で笑いつつ言う希羅。
「なんにしろ……あなたには関係ないことよ。他人の過去アレコレ詮索して、楽しいわけ? 下世話な好奇心は身を滅ぼすわよ」
「そうですね。…確かに好奇心がすぎたかもしれませんね」
「わかればいーわ。
 でも」
 明るく朗らかな笑顔は、ほんの一瞬。
 それは溶けるように消えて、変わりにひどく冷たい空気、殺気が張り詰める。
「あいつらになにか一言でも余計なこと漏らしたら殺す。
 あなたが古凪を捨てたというように私もまたあの家とは…縁が切れているのだから。
 分かった? 古凪紅也」
 肌が粟立った。
 凍りつくような殺気。刃そのものを秘めたような瞳。
 それをしっかりと目にして、紅也は答える。
「…肝に免じておきますよ」
「そ。嬉しいわ。私は部屋に戻らせていただきます。おやすみなさい」
 にっこっと笑い言う希羅。いっそ先ほどの殺気の方が嘘かと思うくらい、明るい表情。
「そうですか、おやすみなさい。
 ―――長々と失礼しました」
 紅也はすぅと目を細める。微妙に焦点の合わない目で去っていく背中を見つめる。
 父親の大きな背中をひたすらに追いかけ、屈託なく笑ってみせた破天荒な少女。
 それは、十年前の記憶。…今は違う。
 今立ち去っていく彼女は一人だ。
 ―――残酷なのは年月…だけじゃないだろうな。
 胸のうちで呟くと得体の知れない喪失感が広がる。
 けれどいつまでも立っているわけにもいかない。
 気を切り替えるように、背後の窓にじとっとした目線を向けた。
「…で。りお。いつから君は覗き見なんて趣味の悪いマネを覚えたんだ?」
 がさっとお約束のように庭の木の葉が動いた。
「…覗いてはいないよ。紅とあの人には『こみいった事情』があるのかと思った。それでボクひとりで帰ろうと思ったら道に迷っただけ」
 ここ突っ切れば近いかなぁと思ったのにね。心底不思議そうに言うりお。
 紅也は特に隠すこともなく大きなため息をついた。
 ―――これが他のやつなら下手な言い訳なんだけどな…
 りおは本気で迷ったのだろう。なにしろここは始めてきた旅館だ。未だに宿舎で迷うことすらある、そんな方向音痴というには程があるほどの彼女だ。もう諦める。
「こみいった…というほど深い関係じゃないな。単に昔の知り合いだよ」
 苦笑して答えながら思う。希羅はこのりおの気配に気づかなかったのか、と。
 ―――そこまで動揺したのか。過去を知る僕の存在は。
 しかし、そこまで動揺させてしまったなら、気の毒だ。
 元々好奇心で踏みこんで問題ではないのだから、不愉快も敵意も当たり前だろう。もっと誠意を込めて謝るべきだっただろうか。
「…斬られるかと思ったよ」
「…紅。顔見知り程度の人に斬られるほど恨まれるよーなことしたの?」
「え? いや…うん…なんだろうな、あれは」
 やたらと嫌われていたがそこまでではない。
 あれは、嫌いとか、そういうものではなく―――
「……ああ、そうか……」
 ―――古凪にしろ、澄生にしろ…
 辿り着いた結論に吐き気を覚え、無意識に呟く。
「同じ、なのか」
 名誉の高さは、挙げた首の数―――その歴史は血に塗られたもの。
 彼女が重んじた『家』は、そういう場所。
 遠い、遠い嘘か真かも知れぬほどの昔の話。
 だから今でこそ穏やかだろう。時代は剣を求めてはいない。
 だから。
 今ならば高らかに誇り等の言葉を謳えるだろう。だが、所詮は人に頭をたれ、人を殺した人間の集まり。
 才のあるものに影のようにまとわりつくのは、血の匂い。
 そう考えれば、彼女の刃そのもののような瞳も頷ける。
「同じってなにが?
 …ま…それはいいか。」
ぐいっと浴衣の袖ごと腕が引っ張られ、つんのめる紅也。
「ところで。ねv 紅。あの人のこと好きだったりした?」
 むやみにきらきらとした瞳で問いかけるりお。無邪気かつ無遠慮な言動に思わずコケそうになった。
 ―――成る程。嫌なものですね、下世話な好奇心、は。
「あの人って…澄生さん、だよね…。ありえないな。僕はあんな感じの方、苦手だから」
「そう? じゃタイプなのはどーゆー人? 
 あ。武と仲いいよね、あーゆー人?」
「男だよ?」
「知ってるよ。タイプの話であってダンショク家なのって疑ってるわけじゃないよ?」
「武行はむしろ…お、んなでも好みじゃない」
 うっかりむしろお―――お義兄さんと呼びたい。とか言いかけたのは心の中だけに二重三重に鍵をかけてその上から鎖を巻く勢いで仕舞っておいた。
「ふーん。やなの?」
「やだとかそれ以前に…繰り返すようだけど僕もあいつも男なんだが。
 想像しろとか性格だけとか言いたいことは分かるが、武行は武行でしかない」
「んー……やっぱ明みたいなのかな?」
「は?」
 紅也の声のトーンが跳ね上がる。顔は赤くなりそこね実に微妙なことになっている。
「武が女になったら明みたいなのかな」
 それを驚きと受け取ったりおは付け足す。
「きっと髪きって睫つけると似てるよー」
 ―――なんだ、そんなことか良かった…
 てっきりばれたのかと思った。
「…まあ君じゃないのは確かだから安心していいよ」
 にっこりと涼しげな微笑みを向け、さりげなく腕を放す。
「それはそうだろーけど」
「納得してくれたら帰ろうね。君が風邪引いたりするとあの二人地味に心配するから」
 ―――余計なことをこぼす前にとっとと帰りたい。
 紅也は心からそう思いながら足を速めた。


 部屋に戻る、といった希羅はその言葉とは違う行動に出ていた。
 体が冷えるのも構わず一人佇み、うつむく。
「…父上…」
 虚ろな心地で呟く。群青の瞳には珍しく破棄がない。
「今…あなたは…」
 少々…否、かなりおかしいところもある人物だったが、希羅にとっては剣の師にして心から慕った父親だ。

 忘れてはいけない。
 私はなんのために刀を手に取った? あの街に来た。
『一人でロクな手がかりもなしにたった一人の人間を探し出すつもり? 無謀にもほどがあると思わないのか?
 俺なら、協力しよう。今はともかく力が欲しい』
 何でも屋をして過ごすのも、東遥霞のその提案をのんだから。
 忘れてはいけない。
 そもそも休む暇もないはずだ。
 仲間意識など無用なはずだ。
 全て捨てて成したいことがある。否、この身にはそれしかない。
 だから、なにもいらないのだ、私は……
 この私は、この命は―――
 ただ一つの目的のために。願いのために。
「…すべては、その為に」
 どこか恍惚とした響きの危ういその呟きは、空気を震わすのみで消えていく。


 白々と輝く月が、静かに夜を見守る。
 胸に抱く思いは実に様々。穏やかとは言いがたいものを含みながらも、時は止まらない。
 振り返る過去は変わらない。
 紡ぐ未来はまだ未定。
 広がるのは『今』という時。

 今はまだ。
 暫しの休息を。

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