出会った瞬間、囚われた。己の壊れる音が聞こえた。
愛していると思った瞬間、指先が震えた。
けれど、その衝動を押し殺して、僕はただ手を握りしめた。
震える指先
ゆるゆると、彼女の瞼が持ち上がる。
無音の部屋の中、空気の震える音すら聞こえそうな錯覚。
現れた瞳は、どこか覇気がない。
否、覇気がないのは、瞳に限った話ではない。
胸元で組まれた指は細く痩せ、ふっくらと愛らしかった頬にも影が落ち、元から白い肌は、もはやすけそうに蒼白い。
やせ細り、力ない。
それが、今の彼女。
やせ細り、力なく、明日の命を繋ぐことで精いっぱい。
そんな彼女と共にあるのは、僕だけ。
だから、寝台に身を任せる彼女の瞳は、自然と僕を捉える。
言葉もなく、視線が絡む。その肌と同じように、透けそうな眼差し。澄み過ぎた眼差し。
なにもかもが褪せた彼女の中、不思議と赤いままの唇が、そっと吐息をもらした。
その溜息の意味することを知っているけれど、僕は何も言わない。ただ、部屋に一つだけの椅子に腰かけたまま、彼女を見つめる。
沈黙が部屋に降り積もる。
いつのまにか降り積もる沈黙は、雪に似ていた。抗いようなく降り積もり、身を凍えさせるのだ。
外にあるはずの、春を告げる柔らかな日差しも、二人きりの部屋では遠い。
凍えているのだ、季節が。
彼女と僕の間では、時間そのものが、凍えている。
しかし。
「また……」
か細い声が、沈黙を破る。
ゆるゆると瞼が震えて、目尻に涙がたまっていく。
「触れては、くれなかったの……?」
痩せた頬に流れる涙を、僕はじっと見つめる。
ぐっと拳を握って、それを拭おうとする自分を潰す。
「そんなになっても…触れては、くれないの」
寝台の上で、半身だけを起して、彼女は続ける。
はらはらと流れる涙は、顎を伝い、いくつもいくつも落ちていく。
その目線の先は、僕の足。
鎖で戒められて、ここから出れなくなった、僕の足。
「…どうして…?」
ふらり、と彼女が歩き、僕に触れる。
その指が微かに戦慄くのは、どのような感情ゆえだろう。
憤り、不安、悲しみ、…あるいは狂気。
つらつらと考えてみるけれど、どれも違う気がする。きっと、言葉にならないはずだ、そんな感情は。
「私しか、いなく、したのに」
追いつめたのに、と、その唇が震える。涙でぬれた唇が、震え続ける。眉を寄せ、追いつめられたような顔をする。
ああ、綺麗だな、と思う。思うだけで、口には出さない。
その沈黙が―――彼女を壊していくと、知っているから。
「どうして……」
するすると、身体を張っていた指が、首にかかる。
ぐ、と力を込められれば、さすがに黙ってはいられない。小さな呻きが漏れてしまう。
けれど、その途端に指が離れる。怯えたように、身を引く。
そうして、一層涙をこぼす。ぼろぼろと泣きながら、顔を覆う。
ああ…綺麗だなぁ。そう思う。
僕なんかに焦がれて壊れていく彼女が。余計なものをそぎ落としていくように、壊れていく彼女が。
だから、閉じ込められても抗わなかった。なにをされても、抗わなかった。けれど―――答えなかった。
今も、ただ黙ってここにいる。
「ど、して…」
どうして、答えてくれないの。
食さえ細くなった彼女は、その言葉を繰り返す。
「愛してるの…」
首に添えられた手は、力を失ったまま。
そのまなざしも、力を失ったまま。
それを取り戻させる術を、僕は知っている。
ただ、頷いてやればいい。ただ、愛していると言えばいい。
けれど、僕はそれをしない。ただただ、彼女を見つめる。
触れたいと震える指を無理やりに握りしめて、沈黙を守る。
このまま、彼女は壊れていくだろう。
僕は、それを見つめ続けていたい。
いつまでもいつまでも―――…ずっと。
聡明で美しいまま、静かに狂っていく彼女。
なにもかもをそぎ落として、か細くなっていく彼女。
削られた彼女が、折れてしまう日は、きっと来る。
その時こそ、僕は彼女に触れられるのだ。
その時こそ、ぽろぽろと崩れた、まっさらな彼女を抱きしめて、愛していると告げよう。
余計なモノは、何一ついらない。
なにもかもいらない。彼女自身ですらも。
彼女が作り上げた、二人きりの世界。
僕がそう導いた、二人きりの楽園。
その中で、壊れていく彼女を見つめ続ける。
ああ、なんて幸福なのだろう。
ぴくり、と指先が震えた。
その元は、恐怖でも狂気でもない。
こみ上がる期待を押さえて、僕は少しだけ目を細める。
まだ、駄目だ。まだ、終わってはいない。
だから。
終わる日を望んで戦慄く指を、今はそっと握りしめた。