階段を降りると、甘い匂いが香る。
 先ほどまで作っていたクッキーは、順調に焼き上がっているようだ。

甘いお茶会

 リビングに戻ると、磨智が二杯目のミルクティーを飲んでいた。
 向いの椅子に腰掛け、自分もポットも取る。氷で満たしたカップに注ぐと、さっと差し出される薄切りのレモンが嬉しい。
「砂糖いる?」
「ああ」
 頷くと、別の容器に満たされたシロップがコップに落とされる。
 こちらに身を乗り出したその拍子に、鎖を通された銀色のリングがチャリと揺れるのが見えた。
「…ねえ、磨智」
「なあに?」
 返されて、一瞬問いを投げかけるのを躊躇う。…キャラじゃない気がする。
 けれど、一度漏れかけた言葉は止まらなかった。
「それ、貰って嬉しかった?」
 目線で銀色のリングを示すと、磨智は一瞬きょとりと瞳を瞬かせた。
「…緋那。まだアレのショックが残ってる?」
「もう混乱してない。誤魔化そうとするな」
 真顔で言ってやれば、真剣そうだった顔がぐにゃりと崩れる。ひどく、嬉しそうな微笑に変わった。
「嬉しいというか…びっくりした」
「…びっくり」
「キャラじゃないじゃん。計画性とか甲斐性とか。…こっそり色々やらかすのは、私の専売特許なのに」
 鸚鵡返しに繰り返した私に、説明不足と感じたのだろう。僅かに苦笑し続けた磨智に、こちらも笑みがこぼれた。
「ああ…そうだな…企むとかそういうのは、お前の専売特許だ」
「むう。そんなことないって言って欲しかったな。失礼しちゃうー」
 わざとらしいほど頬を膨らませる様子は、少し前となんら変わらない。
 けれど、彼女は変わった。笑うことが少なくなった。…かなたとあいつに作りものの笑みを向けることが、なくなった。
「……本当に、良かったな」
「どうしたの? 改まって。…本当にゴキブリショックが抜けてないんじゃ…」
「いや。さすがにかなたに倒れられて落ち着いた…」
 パタパタと手をふって否定する。
 かつて出逢ったばかりの頃、悲しげに膝を抱えていた。小柄な体も相まって、とても頼りなく見えた。
 だから、支えようと、そう思っていた。
 けれど、もう必要はないのだな。本当に、必要はないのだな。
 つい最近まで私より背も低かったあいつに急激に追い抜かれた。今は私が見上げないと、彼とは目線が合わない。
 そういうこと、なのだ。
 胸の中に何とも言えない感覚が広がる。…これが噂の、娘を嫁に出す親の心情か…
「…でも。確かに良かったかも」
 しんみりとした心地に浸る私に、やたら陽気な声がかかる。
 きゃらきゃらと笑いながら磨智は言った。
「こういう恋話じみたことって緋那としたことなかったもんね。楽しい」
「…それは、私と話してるのが楽しいのとは違くないか? その…恋、が楽しいのだろう」
「そうとも言えるけど違うのっ。緋那としかできない話なの」
 大袈裟に肩を落として見せる磨智は、それでも楽しげな表情をしていた。
 彼女の言うことは、たまによく分からない。…だからこそ、お互いに友人でいられるのかもしれない。
「…ねえ、磨智」
 だから、つい先ほど呟いた言葉を繰り返す。
 半分ほどグラスに中身の残った茶を飲みほせば、喉に冷たく心地よい。その感覚に誘われるように口に出す。
「幸せ?」
 少しの間、沈黙が落ちた。けれど、それは全く重くはない。むしろ、優しいと思う。
「…わりと。…ううん、かなり、かな」
 応えたのは、今まで見たことのないような穏やかな笑顔だったから。
 どんな言葉より雄弁な意思表示に、こちらの口元も緩む。
「…そうか」
 幸せなことなんて知っていたけど、口に出して確かめたかった。
 確かめて、考えたかった。
 なぜなのかは、分からないけど。きっと安堵が欲しかったのだろう。
「それなら、謝らないとな」
「誰に?」
「メーに。あの時思いっきり殴り倒してごめんと」
 へえ、珍しいこともしたんだね、小さく呟いた磨智の唇が皮肉な線を描く。ひどく意地悪げな笑みだ。
「でも謝る必要はないね。そんなのいいんだよ。私も殴りたかったけど殴り損ねたから」
「損ねたのか」
「…幸せ呆けで」
 じゃなきゃ殴ったのになあ、とぼやくその顔は本気で悔しそうだ。
 その悔しそうな顔のまま彼女は続ける。
「まあ、殴る代わりに、散々曖昧な態度とられた仕返しはするけどね」
「穏やかじゃないな」
「ふっふっふ。叩いたり蹴ったりはしないよ?
 甘い言葉言わせてやるとか。無意味に飾り立ててみるとか。そこかしこに連れまわしてみるとか」
「…それは、確かに。嫌がるだろうな…」
 楽しげな言葉に、思わず苦笑が漏れた。
 特に一つ目が強力そうだ。言わせてやるとまで言われているのだから、実際言わされているのだろう。想像すると、おかしくてしょうがない。
 飲み終えたグラスを置いて、席を立つ。
 そのままオーブンを開けば、焼きたてのクッキーの香りが広がった。
 皿に移し替えていると、階段を下り、リビングへやってくる足音が二つ。
「今日はクッキーですか♥」
 語尾にハートでもついてるんじゃないかってくらいにウキウキとした口調で風矢。
 彼が外をふらついていることは多い。なのに、所謂おやつの時間には必ず戻ってきている気がする。
 …無論、これは私が好きで作っているのであって、特に集まれと言ったわけではない。家主が3時のおやつを取りたがるので、この時間にお茶をすることは多い。それでも決まっているわけではない。なのに、だ。
「…前から思ってたけどお前の体内時計は正確すぎると思う」
「今日は私が声かけたんだよ…部屋にいる風だったから」
 言いながら椅子に腰かけるかなた。
 トン、と置かれた空のカップには、先ほどと同じように磨智が茶を注いだ。
 それに軽く礼を言いつつ、彼女は続ける。
「ま、部屋にいたのは3時が近いからかもしれないけど」
「失礼ですね。僕だってなにかと忙しいんだら、いつもいるわけじゃありません」
「…私がなにかを作っているとどこからともなく表れている気がするんだが」
「気のせいです。」
 応えるのは余裕綽々の表情。だが、ニッコリと微笑む頬に流れる一筋の汗を見た。
 …別にいいけどな。そのくらい。迷惑でもないし。取り分減るとかブツブツ言うのはかなただけだから。
 そんなことを思いつつ、皿を運んでテーブルに置く。
 その途端、パアッと顔を輝かせ、クッキーに手を伸ばす風矢とかなた。
「…ねえ、緋那?」
 平和だなぁ、こいつらの頭の中。―――などど感心している私には、耳元で囁かれる言葉があった。
 磨智はクスクスと笑って、言った。
「緋那があんなこと言うってことはさ、なんか心境の変化とかあったの?」
 ―――つい先日までしょげていたのに、この変わりよう。
 やけにこちらを見通すような声に腹が立ちそうになるが、それより勝る感情がある。
 ―――もう、心配しなくてもよいのだな。
 それは肩の荷が下りたような感覚。なのに、なぜか一抹の寂寥が胸をかすめる。
「…さてな」
 努めて素っ気なく呟いて、自らもクッキーに手を伸ばす。
 しばしもの言いたげな目線を感じたが、無視する。だって、この心境の変化は悟られてはいけない気がして。
 噛みしめた甘い菓子は、いつもより少しだけ固く感じた。

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