灰となった想いはどこへ行くのだろう。
ただ風に乗って、消えていくだけだろうか。
どこかへ降り積もり、新たな芽を育てるのだろうか。
花散る場所
それは、夜も更け、126番地の住人がそれぞれの自室で明日を待つ頃だった。
こつ、こつ、こつ、廊下を誰かが歩いている。こつん、と足音1つの扉の前で止まった。
飾り気のない椅子に腰を下ろし、雑誌を読んでくつろいでいた緋那は、怪訝な顔で扉を見つめる。
「…磨智」
立ちあがって扉を開く。
そこにいたのは予想通り。茶の髪を長く伸ばした彼女。
けれど、その表情は、予想に反したどこか物憂げなもの。
どこか遠い眼をして、彼女はそこに立っていた。
「…ほら、入るなら入れ。
……どうしたんだ?」
ぼうっと佇んだまま足も口も動かさない彼女を気遣うように、そっと部屋に招き入れる。
静かなその動作に安堵したように、磨智は口を開いた。
「…緋那」
小さくそうこぼし、勧められるまま椅子に腰を下ろす。長い髪がふわりと揺れた。
「…どうして、かなぁ…」
磨智は笑った。
にこりと笑って、悲しげに。なにがいけなかったのかな、と小さく呟いた。
明らかに意気消沈しているらしい彼女に、緋那は眉をひそめる。
―――先ほど夕飯を食べていた時は、いつもと変わらぬように見えたのに。
ああ、まったくと愚痴りたいそうになる心を抑えて、ゆっくりと訊く。
「どうしたんだ?」
二度目の質問に、磨智は笑みを消した。
笑顔だけではない、一切の表情を消してテーブルになにかを投げ捨てる。
カサッ、と乾いた音が静かに響いた。
「お前、これ……もしかして」
「…緋那は覚えてるんだ」
目の前に現れたものに緋那は目を瞠る。
一瞬見ただけではそれが彼女の想像したものなのか悩むところだった。
けれど、磨智の表情を見ている限り、その想像は間違っていなかったのだと確信する。
「…まだ…持ってたのか」
「……捨て忘れてただけだよ」
フフ、と笑うその顔は、どうしよもなく暗い。
ああ、まったく、お前は。
こぼれそうになった言葉を飲み込み、緋那はただ淡々と「そうか」と相槌を打つ。
その声には、なんの感情も含まれていない。なにかを込めようとすれば、どこまでも白々しく響く。だから、しない。
そのことが分かるから、磨智は少しだけ声に明るさを取り戻した。
「…緋那、大好き」
「…ありがとう」
優しく微笑む炎龍に、地龍は頬をゆがませる。
泣き出す直前のような顔をして、それでも言葉を続けた。
「嬉しかったのは私だけなんだよ」
磨智は笑う。そうしなければ、泣いてしまいそうだから。泣きたくないから、笑う。
「…覚えてなかったよ。覚えてるわけがない。
ちゃんと、分かってたよ」
「…磨智」
なにを、とも、誰が、とも口にされることのない、抽象的な会話。
それでも緋那は知っている。
テーブルに投げ捨てられたのは古びた花束。ポプリのように心地良い香りもなければ、目を楽しませる華やかさもない、草と花の寄せ集め。それを束ねるリボンにしても、随分とくたびれてしまっている。
それでも。
それでも、磨智はそれを大切にとっておいた。緋那はそれを知っている。決して立派ではないその花束を貰って、どんな顔をしていたか。今も鮮やかに思い描くことができる―――とはいかないが、喜んでいたことは覚えている。
「……泣いてもいいよ?」
「泣かないよ」
思案の果てに紡がれた言葉に、磨智はゆるく首を振る。
力ない動作の後に、ぽつりと呟く。
「緋那がいてくれればいいの。平気」
それは常よりずっと抑揚に欠けた幼げな声音。
強がるわけでもなく嘆くわけでもなく、ただ静かに流れる、声。
「私は、ちゃんと、気づいて、諦めてるんだから…平気なの」
「……」
『下手くそな花束だね…』
緋那の脳裏に浮かび上がる、いつかの言葉。
そう言って笑った彼女は、くすぐったそうな顔をしていた。
くすぐったそうに、嬉しそうに、笑っていた。
―――今のこいつにそう言っても、忘れたよと笑うのだろうけれど。
ああ、まったく。まったく、本当に、どうしよもない面倒な友人だと思う。なにが一番面倒かと訊かれれば、大切だから見捨てられないことが一番面倒なのだ。
緋那は軽く溜息をついて、花束を手に取った。そして、
「…じゃあお前はこれをどうするつもりだ?」
「捨てるの」
躊躇いがちに訊ねた声に答えたのは、まるで迷いのない声。
「もう、捨ててしまうよ」
唇の形だけで笑いながら、磨智はきっぱりとそう言った。
「…なら捨てればいいだろう」
ここまできっぱりと宣言しているのだ、彼女がこれを処分しようとしたのは嘘ではない。
けれど。
「……捨てれなかった」
けれどあっさり捨てらたなら、こうしてここに座っていることはない。
悲しげな顔をして、緋那を頼ってくる必要はないのだ。
「ごみ箱に投げてしまえばそれで終わる。誰に見られても、なにと問い詰められることはない。
少し捨ててしまえば、絶対、楽なのに……!」
嫌嫌と首を振る彼女は、心から悲しげに顔を歪ませている。
それでも、決して涙をこぼしはしない。ただ声を震わせる。
「もう、嫌なのに!」
「磨智―――落ち着け、磨智」
小さな声で叫ぶ姿を見かねて、そっと手を伸ばす緋那。
ぎゅうと手を握って、落ち着け、と繰り返した。
今日の彼女がこんなに荒れている理由は知らない。この花束が直接の契機となっているのかは分からない。分からないまま、落ち着けと繰り返す。
感情のままに吐き出して、楽になれるならそれがいい。だが、そうした時、後悔して傷つくのはきっと彼女なのだ。
「…もう、嫌なの」
心から労わる言葉が届いたのか、高い声は落ち着きを取り戻す。
嫌なの、そう笑って、告げる。
「だから、緋那。手伝って?」
「手伝う…ほどの、ことじゃないだろう? 私になにができるんだ」
首を傾げる緋那に、磨智は笑った。
甘く歌うように、言葉を吐き出した。
「燃やして。跡形もなく、消してしまって。
―――お願い」
言葉の後に沈黙が満ちた。
ひどく居心地の悪い静寂に、困ったような顔をして緋那は口を開く。
「…それでいいのか?」
「それがいいの」
「本当にいいのか」
「うん。お願い」
お願い、と小首を傾げて可愛らしく微笑んでみせる磨智。
緋那は彼女が笑っているのが好きだった。笑い合うのは楽しかった。
けれどこれでは楽しくも嬉しくもないな。
胸の内だけで呟いて、持ち上げた花束に視線を落とす。
改めて、ひどく不格好な花束だ。けれど今の今まで大切に思われていたのだ、焼き捨ててしまうのは可哀想だと感じる。
それでも。
苦い顔をして、花束を軽く宙に放った。
静かに舞い上がった花束は誰の手にも受け止められることはなく、灰となり散る。
炎に包まれた花束を見つめる磨智の瞳は、僅かに逸らされていた。
―――ああ、まったく。なんて顔をしてるんだ。
泣いてもいいんだよと繰り返そうとした。
無駄だと思い、口を噤む。
何事もなかったかのようにおやすみ、と告げ、部屋に戻ろうとする彼女は、既にいつも通り。変った所などなにもない。
けれどその唇から「ありがとう」も「清々した」もないことに、緋那は気付いていた。
気づいているのに。
「…ああ、おやすみ。また、明日」
そんな言葉しかかけられない自分が、ひどく情けなかった。
こつこつと足音が遠ざかり、部屋に戻ったことを耳で確かめた後、緋那は大きな溜息をつく。
「…あの、馬鹿」
馬鹿、大馬鹿者、苦々しく吐き捨てて、ベッドに倒れ込む。
それでも埃を立てないように静かな動作を心がけてたりする辺り、日ごろの家事労働を一心に受け持つ苦労がにじみ出ている。
「…波風を立てるのが嫌なら、それを貫け。気楽にほいほい地雷を踏みやがって、あの馬鹿が」
磨智はなにも言わなかった。それでも、きっと。きっと、誰かとなにかがあったことは明白で。誰かが誰なのか、など訊ねるまでもない。
冷たい言葉は緋那の本音。それでも面と向かって言わないのは、自分が言っても仕方がないのだろうと思っているからだ。
「…しかし」
このままにしていては、あの友が哀れだ。見ているのが辛い。
今まで―――波風を立てれば磨智が苦しむと思っていたから、目を瞑ってきた。できることなら単調に穏やかな日々を望んでいたのも本当だ。
それでも、と緋那は呟いた。
それでも、このままは、嫌だ。
問題を先送りにして、彼女が妙に思いつめたりしたら大変だ。
目に見えない傷が浅いとは限らない。もうとっくに化膿して、その痛みに耐えているのかもしれない。―――緋那がずっと放り投げてしまっていた、彼のように。
もうあんな想いはごめんだ。だからこれからできることを考える。
問題の元凶には、きっと、誰がなにを言っても無駄だ。
けれど、言葉に表すだけが心を伝える手段ではない。行動を以て指し示すことも可能だ。
それには、きっと協力者がいる。
風矢。彼は口が軽い。磨智との仲もいい―――絶対に口をすべらせる。
かなた。考えるまでもない。1番関わるべき人間かもしれない―――けれど、関わらせてはいけない人間だ。
メー。彼になにを言っていいのか、緋那はよく分からない。分かるのなら、とっくに言っている。
他の…例のカフェにでも行ったとき、どこかの龍に相談を持ちかけるのも手かもしれない。だが…それでは体面が悪い気がした。
となると、と小さく呟く。
となると、彼女が頼る相手は。
「…………あいつくらいか」
あいつ―――ベムは。相談事があると言えばきっと親身になってくれる。口の堅さも信用できる。己とは違う考え方をしているから、きっと力にもなるのだろう。
けれど、今まで散々邪険に扱ってきたという負い目がある。話もロクに聞かなかったという罪悪感がある。都合の悪い時だけ頼ったのでは、まるで惚れさせて弱みにつけこんでいるようだ。
惚れさせて弱みにつけこむ。
なんとも自然に浮かび上がった言葉に、自惚れかもしれないのだと慌てて首を振る。
「…なんかあいつに毒された気がする」
顔を引きつらせ、思わず遠くを見つめるような顔をする緋那。
それでも、すこぶる嬉しそうに微笑むベムの幻は中々消えず、彼女は何度目かの大きな溜息をつく羽目になった。
「…大体の話は分った」
翌日。
珍しく彼女の方から声をかけられたベムは上機嫌にそう言った。
『庭にベンチが欲しいんだ。作った方が安上がりだし、大きさも融通がきくだろう?
お前、こういうの得意そうだから手伝ってくれ』
そう声をかけた瞬間の彼は、緋那の想像を遥かに超える輝く笑みで大きく頷いた。
寸法を測り、図面を引く彼の手伝いだと評して向いに座る。
冷たい茶を出しながら本題を切り出すと、彼は嬉しげに緩んだ顔を引き締め神妙に頷いた。
「分かったけど、僕はなにをすればいいの?」
「……とりあえず、話を聞いてほしい」
「磨智がおかしい。放っておきたくない。それは分ったよ」
グラスで口元を隠し、躊躇いがちな口調で緋那。
ベムは淡々と先を促す。
「……そもそも、貴女が処分したものはなんなの?」
「…花束だ」
「どうして大事にしてたの」
そう、ベムにはそれが分からない。
緋那は磨智がその花束を大切にしていることを当然のように話を進める。
彼女がそう言うなら、きっと本当に大切なものなのだろう。目の前の炎龍と地龍が睦まじいことは知っている。ベムよりよほど磨智のことを分かってるであろうと思う。
だが、仮にも協力を申し出るなら、もう少し説明が欲しい。
決して彼女と二人っきりの会話を続けたいがための方便でない。絶対にとは言えないけれど、違う。
浮かれそうになる思考を必死に引き止めて、真摯な口調を崩さんと戒める。
彼の内心の浮かれっぷりに気づかぬまま、緋那は答える。やはりどこか歯切れの悪い、躊躇いをたっぷり含んだ様で。
「お前の来る前…いや、磨智がここに来てすぐに贈られたものなんだ」
グラスが傾き、コクリ、と注がれた液体が流し込まれる。そこに注がれたのは喉に爽やかな自家製ハーブティ。だが、それを美味しいと思っている様子はない。
今お酒出されたら気付かず飲んじゃいそうだな。
どこかずれた危惧を胸に、ベムは次の言葉を待つ。
「…どうして大切かと訊かれると……、ここからは私の主観だ。間違っているかもしれない」
「客観的に見たことが真実とは限らない。磨智自身に訊いたって真実だとは限らない。人はその気になれば自分を騙せる」
なにやら磨智に隠れて彼女の話をする罪悪感で胸がいっぱいらしい緋那に、淡々とベムは口を動かす。
慰めるわけでも強いるわけでもなく、淡々と己の気持ちを伝えた。
「だけど、話して欲しい。貴女は協力してほしいと言った。僕は力になりたい。だから」
「……そうだな。分かった」
静かに呟く声に、少しだけ強張りのとれた声で緋那は言った。
「あの花束は――――…………」
昔話は、ポットに注がれた茶が殻になるまで続いた。