誰かを好きだとか特別だとか、
俺には、そういう感情が分からない。
共に暮らす皆が、幸せであればいいと、ただ漠然と思っていた。
緋那のことを好きなベムはたとえ報われなくとも妙に幸せそうで
きっと、それだけでいいのだと、思っていた。
強い想いなんて、裏返れば同じ強さで自分を傷つける。
そんなことも分からないくらい、ただ、ただ。ぬるい幸せを愛してた。
赤い色に酔わされて
自室に戻ったものの、どうにも気が落ち着かない。
だから、と再び足を運んだリビングと廊下を仕切る扉の前。緋那の声が響く。
「私はお前を信用していない。お前のことは私に関係ないし、私はお前となにも関係もない。
今も、これからもだ!」
…それは、ちょっときついだろう。ベムに向けて言うにしては、さすがにさ。
止めるつもりで、リビングに足を運んだ。
扉を開ける俺をちらりとも見ないベムが、そこにいた。
こいつの顔色が変わるのをはじめてみたな、と。思うより早く、ベムがふらりと手を伸ばして。
その腕をやけに蒼い顔をしたかなたが抑える。
なんとなく俺も抑えておくべきかと思ったが、もう片方は磨智が抑えている。嫌そうな顔で、酒瓶持ったまま。
「…かなた。磨智。良い。言いたいことがあるなら言わせろ」
「それはこのままでもできるでしょ。…できるよね。ベム」
固い声での確認は、俺が聞いている限りでは命令に近い。
けれどベムにとっては違うようで、肩に力が入るのが分かって――――待て!
「……なんで」
ぶん、と腕を振ると勢いに負けたかなたが尻餅をつく。僅かに顔をしかめた主人の姿に、にわかに胸が冷えた。
その様を一瞥した磨智が、眼差しを厳しくしてその腕をつかんだ。
「オイ!」
非難を含めて叫んでも、ベムは唇を震わすだけで同じ言葉を繰り返す。俺に気づいているのかすら、怪しい。
「…なんで?」
それは、泣き出しそうに割れた声。けれど、その瞳は乾き、得体の知れない色に燃えていた。
俺も、やっと騒ぎを察した風矢も、なにを言うわけでもなく立ち尽くす。
なんだろう。その瞳にあるのは…悲しみでも、怒りでもなくて……分からない。
「…なにが言いたいんだ、お前」
苛立ったようにそうはき捨てる緋那の声と同時に、磨智が振り払われる。割れ物持ってる時だぞ、と止める間がない。
華奢な少女が倒れたにしては重く鈍い音が響き、込められた力を告げる。頭に血が上った。
「…ベムてめぇいい加減に…っ」
「なんで!?」
これまでにないような大声でベムは叫んだ。
…こんな風に声を荒上げるベムなんて、始めてみた気がする。
「なんで関係ないなんて言うの!?
違う、なんでそれを僕よりも、他やつらに言うの!」
「それは…」
「毎日言ってることが、喜ばれていないことは気づいてた!
でも僕は関わりたいのに! それでも関わりたいのに!」
「…影でお前を悪く言ったのは私が悪いけどな! それだって勝手な言い分だろう! 喜んでないことに気づいてたなら、ちょっとは控えろ!」
「それでもわからなかったんだよ! どうしたらいいかまでは!」
今まで聞いたことがないような強い声でそういって、彼の声が不意に沈む。
「…嫌われてるなら、いつかと思った…好きになってもらえるように変わろうと思った…
けど、関わることさえ許してもらえないなら、僕はどうすればいい?
…貴女になにもしないで…もういっそ、とっとと消えればいいの…?」
「…だから、いちいち大げさだろうお前は…っ
そうじゃなくて、ただ…もう少し頭を冷やせって話だ!」
「…どうやって?」
「どうやってて…」
言葉につまる緋那に、ベムの顔が苦しげに歪む。
「なにもないの」
「…なにもないもなにも、それを私が決めたら意味ないだろう」
「……僕は貴女が好きなのに……」
かみ合わない会話の果てに紡がれるのは、いつも通りの言葉。
何度も何度も聴いた言葉が今こんなにも重く響く。
「……それがどうしたというんだ!」
悲痛な響きを持つ声に答えたのは、同じくらい悲痛な色で彩られた声。
「好きだ好きだと理由もなく繰り返されて―――私がどんな気持ちだったと思う!?
分からないだろう!」
「分かるはずがないよ…そんなの言ってくれなかったんだから!」
「言っただろう! 意味が分からないと! これが脈があるように聞こえたか!? 私はお前に消えてほしいなんて思ってないが…!
でも、ただ…私は……ッ」
大きかった声は徐々に弱弱しく、細くなっていく。
悲痛に歪んだ顔から、表情が消えていく。
「私は、お前に応える気なんて…ない」
細いながらも確かな意思を感じさせるその言葉が響いた瞬間、リビングで風が舞う。
「―――待てベム!」
焦りを含んだかなたの声に、夕日に溶ける翼の持ち主が振り返ることはなかった。
『…貴女になにもしないで…もういっそ、とっとと消えればいいの…?』
そう告げる彼の眼にあったのは絶望だったのだと。
やっと気づいた俺の耳に、風の渦巻く音だけが残っていた。