マリア様と名前のない子供

 茶髪のブラウン、と呼ばれていた。
 もっと単純に、靴屋の近く、とか。二丁目の。だった時もある。
 その時隣にいるものによって、名前は変わった。
 そして。
「セオ、ドア」
 道端に座り込んだ女が俺をそう呼んだから、俺はその女の隣ではセオドアだった。
 その時、そいつは俺をそう呼ぶなり意識を失ったから。
 誰と間違っていたかは、ついぞ聞くことはなかった。

「…たすけてくれた?」
「お前がペンダント持ってたから」
「…ないよ?」
「売った」
 俺より二つ、あるいはもう少し小さそうな子供はコテンと首を傾げた。
 そんなことは、よく覚えている。
「…じゃあ、ここにいていい?」
 なにがじゃあなのか。わからない。
 わからないが、適当に頷いた。
 そのうちこいつも死ぬのだから、別に。深く気にするようなことではないと思った。
「私、ミミ」
「ふぅん」
「…あなたは?」
「好きに呼べば?」
 茶色い目が、まんまるくなった覚えがある。
 少し考えるように、ためらいがちに彼女が口を開いた子覚えもある。
「……セオドアって呼んで、いい?」
 断る理由がないので頷いた。
 ミミはやけに嬉しそうに笑っていた。
 違う。
 たぶん、七つか、八つの記憶だから。
 すべては感傷なのだろう。

 彼女が死んだあと、名を聞かれた。
 孤児院に拾われて、名を聞かれた。
「……セオドア」
 少し迷って、名乗った理由も。
 きっとつまらない感傷だろう。

ツイッターの加執修正。そしてさらっと名前が変わるセオドア君の妹分。
正式名はミリアム。愛称はミミ。メアリーから派生した名前。セオドアが彼女の幼馴染の名前だったことを彼が知る日はこないし興味はない。
ちなみにセオドアは「神の贈り物」だそうです。

今も心は底にある

 物心ついたころには、路地裏にいた。
 物心つくまで庇護してくれていたのであろう誰かは、うまく思い出せない。

 孤児院に来る前、なついている子供がいた。
 当時は俺も子供…いや、今も学生なんざ子供だが。

 基本的に一人、というよりは隣にいるものは常に入れ替わる浮浪児の隣。
 いつもついてくる女がいた。

 赤みの強い髪。手入れなんざしていない割に、キレイに波打った長い髪。
 棒切れに皮をはりつけたような細い手足。
 いつも笑ったような形の双眸。

 その子供は、なぜか俺について回ってきた。
 だから俺も、食べ物を分けた。服を譲った。清潔な布も譲った。寒がれば一晩中抱いて寝た。

 細い、細い。
 力などいれずにもおれそうな手足。それでも、隣で寝れば奥にあった体温を覚えている。

 細くてもろい俺のいもうとは、ある日熱を出した。

 数週間の間、かけずりまわった。
 できる限りのことをした。
 できる限りのものを集めた。
 …ボロボロに殴られながら金を集めて、医者にもつれていった。

 寒い寒いと訴えるので、金を集めている間以外、ずっと抱いていた。
 肉なんざかけらもない体は、どんどんと細くなっていった。

 けれど、医者は。
 ようやくつれてきた医者は、さも哀れなものを見る目をして。

 薬を譲ってやろうかといわれた。
 ……楽に死ねる、薬を。

 これはもう助からない。
 そう告げた医者は、憐れむように首をふったのだ。

***

 いもうとは最後まで寒いとつぶやいていた。
 薬の代わりに譲り受けた毛布の中、細い体は氷みたいに解けていきそうだと思った。

 長く続いたはずの時間は、思え返せば数時間程度。
 ほんの数時間程度で、その子供はふっと息を引き取った。

 ……悲しかったような気がする。
 ……寂しかったような気がする。
 目から流れる涙の意味は、きっとそんなものだったのだろう。

 その日以来、もう、生きるのに必要なことをやめたから。
 よく覚えていないが。

 ぼんやりと。
 もう、喉は乾くという段階もすぎて、目もかすんできたころに拾われた。

 孤児院につらなる、大人だった。

 いもうとが倒れた時、あれだけ助けを求めたのに。
 あれだけやれることやったのに。

 血も魂も尊厳もなにもかもを投げ出すように、金を、薬を求めたのに。

 俺がまともな環境に移ったのは、なにもしないでいるときだった。
 なにもせずに、死を待っているときだった。

 ああ、運なんだな。
 そう思った。

 努力は何も運んでこない。
 すべては単なる運なのだ。

 運が悪いからあいつは死んで。
 運がいい俺だけが生き残ったのだと。

 あの日からそう思う。
 俺にできることなど、何一つないのだろうと。

 もろくなっていく手足の感覚とともに、強く。
 強く、苦く、染みついた。


 孤児院に入った。
 似たような境遇のやつも、似ていないやつもいた。

 笑っているやつも、暗い顔のやつもいた。
 ………ミミは、生きていれば。どちらに入ったのだろうか。

 考えた瞬間、悲しくなった気がした。寂しくなった気がした。
 涙は二度と出なかった。

***

 コレーがおかしなものに興味を示しだした。
 いつもだが。
 放っておくのも何かと思ったので、一応付き合った。
 その結果、なんだか変な蝶がヴィンセントの部屋にいつくことになったし、おかしなボールをサイラスが熱心にいじっているが。

 ……まあ、いいだろう。
 別に、あの二人は危険性とかその他もろもろとかわかっているだろうし。心配だけど。

 適当に課題をしあげながら、そう思う。
 …しあがったはいいが、そういえば保存手段がない。当日までは大丈夫でも、一日展示している間に腐りそうだ。オリーブだし。
 いや、しかし。永遠の美としては正しいと思う。その方が。そんなものはないという主張だ。うん。
 …提出さえすれば問題にならないだろうから、どうでもいわけだし。

 どうでもいいといえば、そう。
 コレーのことも、別に。どうでもいいといえば、いいのだ。

 ただ。
 ただ、妖精なんてあきらかに化け物だとわかった割に、やはり懲りていなそうだし。
 …おかしなセリフを、こちらに伏せるし。
 アレは自分の巻き込まれたことの危険性、わかっていないように見えるから……だから。

 知らないで死ぬのは嫌だろう?
 知って、好きで危ういことをするなら、俺が口を出すべきではないが。

 何も知らないまま死ぬのは、きっと嫌だろう?

***

 医者に助からないと宣告された妹は、それでも息を引き取る数時間の間、何度か意識があった。
 寒い寒いとうわごとにまじって、かすれた息で尋ねてきた。

「わたしたちはわるいことをしていたのかな」
 違うよ、と俺は言った。
「だから、だれにも、いつも、たすけてもらえない……?」
 違うよ。違う。
 繰り返す俺に、あいつはいうのだ。
「じゃあ、なんで?」
 お前は悪くないんだから、世界が間違っているに決まっているじゃあないか。
 気休めの嘘に、あいつは笑った。
「これからいくのは、どんなとこ?」
 その問いにどう答えたのか、俺はよく覚えていない。
 ただ、彼女が笑っていたことだけ覚えている。

 細く、もろい、その生き物は。
 俺より心が強かったから。

 それでも「寒い」とあいつは泣いて。
 それでも「なんで」と繰り返したから。

 あの時、きちんと教えてやれたらよかった。

『お前は何にも悪くないよ』
『俺たちは、もがいても抜け出せないくらいに運が悪いんだよ』

 ただ。あの時は。
 後で行くとしか言えなかったけれど。

 ―――最後まで笑うあいつに、それしか言えなかったけれど。

***

 寒さも、すえたにおいもしない、清潔な廊下を歩いてる。

 おかしな地図を見つけた男に背を向けながら、手遅れといわれたあの細さをなぜか思い出す。

 別にいいんだ。アレがまたおかしなものを持ってこようと、もってこまいと。
 それをどうするか決めるのはヴィンセントだから。

 別にいいんだ、なにもかも。
 わめいて祈って叫んで行動して。

 なにかが変わったことなんて、何一つないんだから。


こっそりごはん分けたくてもなんかバレるし言わなくてもいいことボロっというし中途半端でイライラするなと思ったセオドアの行動理由づけしてみたら半分死人みたいなことを言い出し始めた。
でもごはんはこっそり分けたかったんだよ! 隠すの技能低いから仕方ないじゃん!

自分の行動がなにかを変えることはないと思ってる。
けど生きてるのでふっと息をするようなノリで心配の名残が口をつく。みたいな。
悪いことを「そういうもんだ」って受け入れるってある意味めっちゃ敬虔な信者だね!
2019/08/26

それは名もなき「誰か」の話

「その子供、もう助からんぞ」

 ゆらり、とやせこけた子供が振り向く。
 あと一日持つか持たないかも怪しい子供を抱く子供もまた、死にそうだ。

「ここで看取っていけばどうだ。お前はその程度の対価は払った」
「そんなことのための金じゃねえ」
「そうか」

 痛ましく思うが、それだけだ。
 ここで彼を呼び止めて、養う程度の収入はーーー…実はなくもないが。
 それをしてはキリがない。
 私の心が持たない。
 一人に情をかけて、他にはかけないというのは、そのたびに心をえぐるだろうから。

「…でも、確かに、なにもしてもらってねぇな。アンタに」
「そうだろうな」
「…1週間後に、さ。ここから少し離れた、木の植えられた場所があるから…そこにきてくれないか」
「…なぜ」

 がらんどうの、死人のような目がうっすらと細くなる。
 その表情だけで、おおまかなことの成り行きは読めた。

「その時言う」
「………そうか」

 ふらり、と死ぬ気なのであろう子供が歩いていく。
 もはや私の声も聞こえていないであろう、小さな子供を抱えて。

 抱えられている方は、もって一日。
 だから、彼を助ける気があるのならば……

「……ままならんな」

 助ける気はないのだ、見捨てるしかない。
 それだけのことがやけに苦くて、はぁと息をついた。

***

 助からないといわれた。
 助けられないといわれた。
 こいつがそれを聞いていなくて、それだけが幸いだった。

「…セオドア」
「うん」
「いたい」
「そっか」
「おいしゃ、さん」
「…薬作ってくれるってさ、その時またこいって」
「………そう」

 茶色い目がうっすらと細くなる。
 きっと嘘に気づいている目だけれど、撤回はしない。
 したくなかった。

「セオドア」
「うん」
「……わたし、死ぬまで、ここに、いてね?」
「……バカなこと言うなよ」

 手のひらを握る。
 それだけではあんまりにその体が冷たいから、全身で抱きしめる。
 …俺の体も似たような温度だと、そうして気づく。

「……おまえが、しんでも、俺は、そばにいるよ」
「……そう」

 それから、しばらく話すうち、彼女は何も言わなくなった。
 何も言えなくなって、呼吸が短くなって、ああ最後なのだと気づく。

 額を合わせる。
 頬を寄せる。
 それからゆっくりと体温が失せ、ゆっくりと固くなっていく。

 ボロボロとこぼれる涙が冷え切るまで、その固い頬に触れていた。

***

「……」

約束の日、子供は確かに指定された場所にいた。
冷たくなった子供の体を抱いて、同じ温度で待っていた。

「…お前の持ってきた金額は、墓なんざ作るのに足りていないぞ」

たが、うちの共同墓地にいれるくらいなら、してやるよ。
刻む名前だけは、二人とも聞いたからな。

セオドア君(のもとになった人)ととあるお医者さんのお話。
きっと冒涜的なことに関わっているお医者さんで冒涜的なことに関わって診療所を捨てたと思われる。

セオドア(のもとになった人)は「お母さんが半年くらいで亡くなる→お母さんの友達が一歳くらいまでは育てる→生活苦からたらいまわし→3歳くらいで路地裏→路地裏で助け合ったり助け合わなかったり→9歳くらいで妹分に会う→10歳くらいで死亡」じゃないかなぁ。と思います。そこまで厳密に決めてないけど。死亡した年から彼は「孤児院に拾われた」と思っているんでしょうね。それ以上の記憶は、路地裏では作れなかったから。遺伝子に記憶などないから、全部が全部まぼろしだったけれど。 きっと死後も忘れえぬ記憶。「お前を死なせたくなかっただけなのに」次があればと願った記憶。「次は近しいものを守れますように」