いとしい声の話

 子を産んで思ったのは―――…
 死ぬほど痛いということだった。

 出産で母性は生まれないと思う。
 むしろありもしない母性がないものがえぐりとれていくイメージだった。死ぬのかとも思った。苦しい死に方だなとも思った。

 子育ても面倒だった。
 化け物の調査をしている方がいくらか気安い。
 なぜって……
 それでしくじっても、死ぬのは自分だから。
 兄が死ぬ場合もあるが。それでも、その気持ちもまだ子育ての日々に比べれば気安かった。
 日々目が離せなかった。不安だったし恐ろしかったし。…愛しくもあったと思う。
 ……というか、過去形じゃないけど。
 まだ絶賛子育て中だ。少なくとも私はこの年頃の時代、まだ兄と姉にべったりだった。…今もべったりだと夫には言われそうだけれども。あの人はたまに心が狭い。そんな状況で立ち合い出産などするべきではない。そんな…ちょっと痛い痛いと叫びながら呼んだのが兄なくらいのことで。
 ……。
 ……訂正しよう。あれは私としても黒歴史というか、恥ずかしかったというか。ちょっとだけ申し訳なくなった気がしなくもない。でも不義ではない。そして覚えてもいない。しかたないので忘れてほしい。

 そんな色々なあれこれを経て生まれた、小さな…もう抱えてはいられない程度には大きくなった娘が、テレビの前で首をかしげる。たぶん、不安げに。
「ママはどうして歌が好きなの?」
「どうして、って。どうして」
 録画映像の中で主役として歌っている娘は、すねたような顔をする。
「ママは、歌なんて聞こえないんでしょ?」
「補聴器なければ。聞こえないね」
「でも、私が歌うと喜ぶでしょう。それは無理してるってこと?」
「…ああ、なるほど」
 いきなり何事かと思ったけれど。
 そうか、そういう方向に心を痛めるのか。この子は。
「ママは、歌がうまく聞こえない。けど。今は聞こえるし…
 昔から、家族が歌っているのを見るのは、好き」
「…じゃ、無理してないの?」
「ええ。無理はしていない」
 無理などするはずがない。
 幸いなことだと思う。
 客観的に見て、おそらく私は哀れな子供だ。
 それこそ母に撫でられたことはない。気にかけてもらったこともない。…いや、実際のところは分からないが。
 私に残った事実は、あの人や兄と姉に存分に甘やかされて育ったということだけだ。子育てして分かった。3人とも、私にとても甘かった、と。
 幸いなことだ、本当に。

 ―――音がうまく聞こえなかった。

 けれど、それで嫌な思いをしたことは少ないように思える。
 誰かが歌っているという光景は、私にとって幸福な日々の象徴だ。
 兄が小さく歌う声がうまく聞こえなくとも。その周りに集まる人が、私はみんな好きだった。

 家族の集まりを見ても、寂しくはならない。
 同じこと、あるいはそれ以上のことをしてくれる兄と姉がいる。失ったものは多くあるが…それが私のすべてだ。
 …だから。

「私のかわいいお姫様。そんなことは気にしなくていいんだよ」

 母のような人がしてくれたように抱きしめる。

『大丈夫よ。必ず朝は来るから』

 ―――ああ、確かに、朝はきた。

 あれから何度も、変わらずに。愛しいものを増やしながら。  あなたが欠けたまま、私たちに朝がきた。

 エリーサはなんかふらっとしれっと子供産んでそうなイメージですがまあマジレスするなら自分を粗末にするようなことはできないでしょう。脳内で兄と姉が怒るようなことはできないでしょう。
 そして家族ができたら、あの三人やヘレンさんがしてくれたことをするのでしょう。まるで単なる親子みたいに。
 そんな人生です。

人間できてはいないけど愛情深い人だと思います、エリーサの旦那

 そのロケットを外すとき、ブラジャーのホックを外すより達成感があった。
 なんなら初めてのベッドインより感慨深かった。

 そのロケットを外して手渡すと、大事そうに胸に抱かれるのは、少し、なんというか、うん。
 色々と思うところはあるけれど、大事に抱えていたそれをベッドわきのキレイな布の上に置くのをみるのは嫌いではない。
 本当に大切なのだと、仕草で、目で訴える恋人を見るのは、嫌いではない。

 たまに髪を結んでいるリボンもそうだ。
 乱暴でさえないのであれば、どこをどどれだけ触っても文句を言わない彼女だが、たまに髪を結わえる赤いリボンと、いつもつけているロケットに触ると、やんわりと手を重ねてくる。
 大事なものだから、と最初は絶対に自分自身で外していた。
 触るのが許されるようになったのは最近だ。

 おおよそ拒否するということも、わがままをいうという女でもないので、余計に気にかかる。
 大切なのだと、全身で語るものだから。

 …そして。
 その二つと違い、いまだ手を触れることすら嫌がる品が一点。

 どこもかしこも……
 彼女自身の手も届かぬような場所に触れるのはOKなのに、そのピアスだけはダメらしい。
 一度手をふれたらベチリと叩かれた。
 触れたというか、あのままでは脱がせるとき服にひっかけそうだったので外した。
 けれどはたかれた。
 ベッドの上で盛り上がった恋人に、ベチリと音が出るほど叩かれるのはそれなりにショックだった。
 すぐに「ごめん」と謝った彼女もショックを受けているような顔だったから、責める気にもなれなかったが。
『もう終わったけど。願掛けしてた。大事にしてたら。また会えるって。
 …それに、あなたも。例えば。下着に注目されたら嫌でしょ。そんな感じの気持ちなの』

 下着なのか、そのピアス。
 どんな気持ちなんだ、それは。
 下着どれだけまじまじとみても文句言わないだろ、君。
 むしろ新品だと報告するじゃないか。一度色気がないと嘆いたらそういうの気をつかってくれるじゃん。

 色々と言いたいことはあったが、やめておいた。
 なにしろはたいたときの顔が珍しく罪悪感に満ち、責める気などなれなかったし。
 その、ちょっとしおらしい態度に。うん。いつもより燃えた。


 …その一件以来、そのピアスには触れていない。
 ゴールドの台座に透明な石がはまった、かわいらしいデザインのピアス。太陽と月を模したデザイン。
 それを丁寧に丁寧に外すしぐさも、別に嫌いではない。

 …そんなに大事なら付けたままのほうがよくないかと言ったことがあるのだけど。
 『あなたが怪我しそうだから。ヤダ』とすねる顔はかわいかった。
 まあ確かに怪我するかもしれない。舌ひっかけるかもしれない。
 すぐに『服にもひっかかると悪いし』というのもかわいかった。貴重な照れるシーンだったから。
 …………。
 うん、別に。
 自分が彼女にないがしろにされているとは思わないし。
 無機物に妬くほど小さくはないが。

「…どうかした?」
「別に」

 今日もベッドの脇に仲良く並ぶロケットとピアスを見て、やんわりと笑ってみる。
 多分一生勝てない気がする。
 それでもまあ、負けているわけでもない。ならそれでよしとしよう。
 俺を見る彼女は、それらを見るのと同じ感情を宿しているように、見えるから。

重度のブラコンとシスコンを併発した彼女と長く続く人がいたらそれはとても懐が深く、愛情も深い人だ世思うよという交際時代。
子供生まれたらさすがに一時期外すかな。ピアスは引っ張られたら危ない。

それを愛だと信じてる

 あれはなに、これはなに。なんでお空は青いの。なんでお目目の色が違うの。なんでダディはブーブー作ってるのなんでブーブーは飛ばないの。なんでパンはパンなの。なんでペロベロン(娘が作り出した架空の動物だ)はベロが紫なの。…ほかにももっとよくわからないものが色々と。
 そんなことをしきりに聞いてくる時代は過ぎたと思っていたけど。これもなぜなに期に入るのだろうか。
 娘はかわいらしく首をかしげて、ねえ、と声を上げた。

「ママはどーしてダッドと結婚したの?」
「好きだからだね。ダッドもママを好きになってくれたから」
 ボカすことでもないので、素直に答えた。
 首を傾げられた。傾げられても。
「ダッド、ケリーおじさまよりかっこよくない」
 まあ確かに、子供から見たらケリーのほうが「かっこいい」だろう。物腰とか。
 私も小さいころはアレがかっこいいの指針だった。…彼と、もう一人。愚かで裏切者な兄が。
「ルシアおばさまよりいい匂いしない」
 確かにルシアにくっついてるといいにおいがした覚えがある。いや、私の時はいい匂い…とは違うか。やわらかくて気持ちよかった。
 でも、父親が柔らかくて気持ちよかったらそれは肥満じゃないだろうか。最近お腹がゆるんでいるからいつか柔らかくなりそうだが。いい匂いはしないだろうな。そのころ。
「…ジムおじさんほど遊んでもくれない」
 ああ、それが本題か。
 ……それは仕方ない話だし。これはきちんと話さなければいけないことだろう。
「ダッドは遊んでくれないこともあるし、最近お仕事ばっかりだし、顔は普通だし、油くさいけど。
 いつもエレーナのことを考えてる。夢中」
「…でも遊んでくれないもの」
「ダッドが遊んでばかりだと。お金がなくなる」
「でも、お話もしてくれないのよ。ママは忙しくてもいつも電話くれる」
 それも仕方ない。 三日ほど家を空けているから。
 電話をかける時間にこの子は寝てる。スキを見て昼間にかけれる私と違う。
 …というか。普段は私のほうが家を空けがちだ。
 …本当に色々まずかったとき、連絡をたって大泣きされたことがあるけれど。そのことは今この子の中から忘れられているようだ。
「それはね。エレーナ。さみしいというの。ダッドが悪いんじゃない。あなたが、さみしい」
「エレ悪くないもん…」
「うん。悪くない。さみしいのはだれも悪くない。エレーナがダッドがだいすきってこと。だからいいの」
「よくないもん…」
「……エレーナ。お出かけの準備して。ダッドのお仕事してるの見に行く」
「……ダッド、お仕事のジャマすると怒るのよ」
「そう。怒られたの…それはママが叱る。…でも、ダッドを見ても、走っちゃだめだよ。あそこは車ばかり。とても危ない」
「……お話できる?」
「ダッドはやる時はやる男。手くらいはふってくれる」
 おしゃべりではないのね、としょげる姿が痛ましいと言えば、痛ましい。
 …そして、あの人は幸福だ。
 これだけ寂しがられているんだから。
 私も幸福なのだろう。とても今、心が温かいから。
「…エレーナ。ダッドもカッコイイ時がいろいろあるのよ」
「…え、嘘」
 え、そんなびっくりした顔で。嘘とまで。
 嘘とまで言われるほど―――かもしれない。
 というより妻のひいき目を除けば、かっこよくはない。
 それこそケリーより色々スキだらけだしルシアほど聡明じゃないしジム兄さんほど強くない。
 私の知る人の中で、1、2を争う泣き虫だ。小さいころのメアリを思い出す。
 でも、やさしくて一生懸命な人だ。
 それに、
「……いっぱいあるから、お話しましょう。だから。さみしくない」
 それに、誰よりこの子のしあわせを優先してくれる男であることは間違いない。
 そういうのをカッコイイというのだと教えるのは、たぶん母親の役割なのだろう。

***

 なぜなに期(第二次)っぽいものはその日も続いていた。

「ママ。エレの名前はなんでエレーナ?」
「ダッドが決めたの。たくさんたくさん考えて。
 お部屋がうまるほど。たくさんメモを書いてた」
「そっかぁ」
 頷いた娘が、どんと突進してくる。痛い。
 よしよしと撫でて、抱えて、背もたれとなる。…抱え上げてないけど、重くなった。お腹に入っていた時期もあるのに、不思議なものだ。大騒ぎして出てきたのはほんの少し前な気がするのに。
 名前を決めるのも、大騒ぎだった。夫が。
 部屋が埋まるが比喩ならいいが。本気でうまったのでちょっと困ったのは今は懐かしい思い出だ。
「…たくさんたくさん考えて。ダディはマミィのマミィの名前からつけたの。
 太陽の名前。あなたの人生が明るく、あたたかくなるように」
「ママのママ? グランマ? グランマもエレーナ?」
「ううん。読み方は私の名前に近づけてくれた。おそろい」
「おそろいかぁ。ダッドはえらいねえ。…でもダッドだけ仲間外れね?」
「仲間外れじゃない。あなたはダッドと似てるから。笑うとかわいいのが似てる。目の色も一緒」
「エレのほう可愛いよ!」
「…そう」
 あまりあの人をいじめたり馬鹿にしたりすることは言わないであげてほしいが。まあ、このくらいならいいか。
 最近はなんにでも張り合いたいらしい。向上心があるのはいいことだ。
 友達に「私のほうがかわいい」といったら確実に喧嘩になる気がするけど。……友達というのは喧嘩をするものなのだろう。たぶん。家族しかいなかった身としては、このあたりがよくわからない。
「ねえ、ね。じゃあ、エレにもグランマ二人いるのね!」
「うん」
「会える?」
「お空の上にいるから。今は会えない」
「いつか会える?」
 空の意味を―――人の死に直接触れたことのない娘は無邪気に笑う。
「そうね。エレがおばあちゃんになったら会える。
 そのときは、きちんとお名前を教えてあげて。
 エレーナはとってもかわいいから。ちゃんとお名前を言わなきゃ。きっと天使に間違えられてしまう」
「うん。エレねえ、お名前、ちゃんと書けるよ!」
「そう。エレーナは字が上手」
 撫でながら、娘を見る。
 夫に似た緑の目。ふわふわした髪はどちらにも似ていない。…が、小さいころの夫はふわふわとした茶髪だったそうだから、これもあの人譲りだろう。
 私には―――夫が言うにはそれなりに似ているらしいが。あの人の証言は大げさすぎて頷けない。かわいいところが似てるって、なに。
 ……。
 夫の髪とこの子の髪が似ているといったのは姑だ。
 もし。死してあの人に会えたら、言ってくれるのだろうか。この子が私に似いる場所を。
 ―――違う。
「ママのママはどんな人? ママに似てる?」
「…顔は似ていない。血がつながっていないから。
 私を抱きしめてくれて。朝が来るって言ってくれた。
 …大好きな人」
 別にこの子と私が似ていても、似ていなくても。そんなのはどちらでもいい。
 ただ、聞いてみたかった。
 私の小さいころのことなら、ジム兄さんもいくつか覚えていてくれるかもしれないけれど―――そうではなく。
 話してみたかった。昔の話を。今度こそみんなで、夜が明けるまで。
「エレも! エレもママが好きだよ!」
「ええ。私も。愛している。かわいいかわいい、…いとしい子」
 どうかあなたに、ずっとそう伝えられますように。

ヘレンの異形がエレナとかエレーナらしいので。そんな感じだよという話。
未練というよりは、彼女は「子供の名前を親からとるのはポピュラーでしょ」とか言ってくれる人と結婚する気がします。
そうでもないとシングルマザーなると思うよ!

とある女ととある親子の話

 何年か前のことだ。
 なにか祭りに行った時、子供にからまれた。服の裾を引かれた。5歳か6歳くらいの、おさげの女の子に。
「おねえちゃん、ダディ知らない?」
 緑色の目でこちらを見て、子供は頬を膨らませていた。
「ダディったら、だめなのよ。迷子はマミィに怒られるのに、迷子なの」
 迷子はあんたでしょ。
 …と言うのは大人げない。
 しかたないので肩車して、しばらく歩いてやった。運営に預けるつもりで。
 高い視界が楽しいのか、女の子は上機嫌に歌い始めた。なかなか上手に、マザーグースを。だらしない男が部屋に散らばるアレだ。可愛らしく高らかに歌うのはどうかと思う内容だけど、マザーグースとはそういうところがある。
 ついでに、楽しそうなところに水を差すものでもない。
「上手ね」
「ダディが教えてくれた!」
「そう」
「でも、ダディよりおじさまとおばさんの方がじょーず」
「へぇ。ダディは悔しがる?」
「うん、泣いちゃうの」
「あら、だめなダッドね」
「うん、でね、マミィによしよしされる。ずるい」
「あら、甘えん坊ね」
「うん、あまえんぼなの」
 そんな話をしているうちに、子を呼ぶ声が響いた。
 娘と同じ色の瞳を限界までかっぴらいて、真っ青な顔をして、彼女の父が。
 なるほどたしかに、甘えた顔だなと思った。
 娘をかきだいて叱って、私に何度も頭を下げる勢いはすさまじかった。腰、おれそうだった。
 昔付き合ってた男にみせられた、アカなんとかとかいう人形を思い出す動きの父親を見て、女の子は首をかしげる。
「ダディ、マミィに叱られた?迷子だから?」
「ああ、そうじゃない。そうじゃない。お前がいないと息がとまりそうだった!」
 頬擦りされた子供はきゃらきゃら笑う。
 私に謝る前にずいぶんと叱られたわりに、反省していなそうだ。
 まあ、いいんだろう。幸せそうだし。
 そうして幸せそうな親子は、手を繋いで帰って行った。
 お礼に買ってもらったリンゴジュースを飲みながら、思ったものだ。
 子供育てるって、つくづく手間だなと。
 投げ出さない程度には、うちのにも愛だか義務感があったのだろうな、と。
 騒ぐ子供を見ると、たまにそんなことを思うのだけど―――…

「でも腹立つは腹立つ」
 私はミュージカル身に来ただけなのに。
 なのに運悪く目にはいった名前に、ツバとか吹きかけたい程度には。

***

 ダディははエレが迷子で、だからマミィがおこってるって言った。
「エレーナ!」
 でも、マミィはエレをぎゅーて放してくれない。
 耳がいたくなる声を出してたけど、怒ってない。
「マミィ、いたいの?」
「…エレーナが無事だったからいい」
 ぎゅーてされるのはいたくないけど、お腹がぎゅってした。
 謝らなきゃとおもった。
『悪いことをしたら、ごめんねってちゃんといわなきゃ、かなしいことになるんだよ』
 よく分からないけど、マミィはたまにそう言うから。
 だから、ごめんねと言った。
 ぎゅーっとされたままだから、もしかしたらマミィは泣いてるのかな。

 だって、マミィはたまに泣き虫だ。
 ダディがよしよしってするけど、ダディも泣き虫だ。
 二人ともだめだなぁ。エレがしっかりするからね。

 はぐれていたのは5分程度。
 でも汗だくになってかけまわる親子のお話。
 娘を保護してたのが自分の血のつながりがある姪っ子だと気づきもしないお話でもある。