殴られると痛いのを知っている。
突き飛ばされると痛いのを知っている。
ずっとなじられていると、まっとうな判断ができなくなる。
そもそも体のどこかが痛いと、もう判断どころではない。
人に暴力をふるうとはそういうことだ。
怒声をあげられるとはそういうことだ。
ガンガンと叩かれるドア。
寝る間を惜しんで働く父。
常に顔色が悪くなった母。
その原因――…連帯保証人にしても、利子がおかしい。
とっくに払っているはずだと、父が弁護士に訴えたのは高校卒業間際だった。
……。
その弁護士が持って行った証拠を握りつぶしたのを知ったのは、両親が失踪したときだ。
警察もマトモにとりあわなかった理由を知ったのは、その時だ。
俺の故郷は小さな町だった。
小さくて、そう。金と暴力である程度権力をにぎりつぶせてしまうくらいに小さかった。
だから父の訴えは握りつぶされた。
父の知人だか友人だが消えたのも、それに絶望したからだろう。
騙されて肩代わりしてくれるような馬鹿がいたら、そりゃあ消えるだろうよ。
分かるのだ、わかってる。
誰かに押し付けるのも、そこで泣き寝入りするのも、悪手でしかなかったことくらい。
けれど。
殴られると痛い。突き飛ばされると痛い。踏まれると痛い。
一人囲まれた時は、ああ、死ぬんだなと思った。
これ以上殴られないためなら、なんにでも頷く。
あの時考えられたのは、ただ一つ。
父も母も、これが嫌で俺を捨てていったんだな、と。
せいぜいそれくらいだった。
もう追ってこれないところまで逃げても、金を返すのはやめなかった。
…やめられなかった。
探し出して殺すといわれていたから。
俺も、…両親も、必ず探し出して殺すと。
だから逃げてからも怖かった。
ありもしない追っ手におびえた。
大きな物音が怖かった。
それらしい恰好の人間も、バイト先テレビに流れる、ドラマの借金取りさえも。
夜が怖かった。
ノックの音が怖かった。
全部、全部、怖かった。
…怖くて、怖いと。
人間は「正しい選択」をする余地なんてないと、よく知っている。
見下されるだけで怖かっただろう。
抵抗できないのは怖かっただろう。
恐いと余計に、逃げられない。
知っているんだ、本当に。
それを思い出すと、今も眠れないから。
逆らえず、助けも呼べないことが。どれだけ怖いのかなど。
身に染みて知っているんだ。
***
なぜこの女は泣くのだろう。
泣いたら何か事態が好転すると思うのだろうか。
思うだろうな、思うよな。
事実お前は、好転するだろうしな。
そうやって、誰かが助けてくれるもんな。お前は。
いつもいつも、大丈夫だと。何の根拠もないくせに。
能天気に、こちらの――も知らないで。
いつもいつも、自力で走れもしないくせに。
人の手ばかりとろうとして。
なあ、その女が死んだところでお前になんの不都合がある。
手を取り合っていたはずの人間をかみちぎるような人間が死んで、お前に何の不都合が。
俺が人を殺して、お前になんの関係があるというんだ。
俺がそれをためらった所為で、さっき腹刺されただろう。
刺されて、何の抵抗もできていなかったくせに。
少し遅ければ犯され殺されていたくせに。
なんでこんな状況で他人のことを気にするんだ。
なんで俺のことを気にするんだ。
結局こちらの言うことなんて、何一つ聞かないくせに。
ああ、腹が立つ。
話せばわかると思っていることが腹が立つ。へらへら笑っているのが腹が立つ。
おびえて見せれば相手がひるむと思うのが、腹が立つ。
ああ、動かれるのも腹が立つ。
どうせ逃げられもしないくせに、手間ばかりかけて。
そうか。嫌だよな。そりゃあ嫌がることしてるし、痛がることしてるんだから。
ああ。だから。
それを口にしても、逃げる力がなきゃ意味がないと、ずっと言っていたのに。
イライラする。腹が立つ。この女を形成するすべてに。
組み敷いた体は細い。
手の中の腕はその気になれば砕けそうだ。砕いてしまおうか。砕けば静かになるだろうか。ならないなあ。痛いはずの時に、痛いはずなのに。わめきもせずに、泣きもせずに、減らず口ばかりを。…それはいつだっただろう。
ちらりと顔を見る。うっすらとにじむ涙を、初めて見た気がする。
「…なんで泣くんだよ」
「泣いてないよ」
「…そうか、泣いてないなら、まだいいか?」
嫌がって泣くと思ったのに、肯定も否定も返ってこなかった。
何も言われないことに腹が立ったので、脚に手を伸ばした。
手を離すとポカポカと叩かれたので、ああ。手が邪魔だと思った。
叩かれようが逃げられようが、つかめばそれまでだが。
それでも抑えているのが煩わしい。イライラする。逃げられるのが腹立たしい。どこ逃げれる気でいるんだ。この状況で。少し体重をかけるだけで逃げれもしないくせに。
細い手首が目に入る。白い、頼りない腕にある赤い跡はいつ、どこで。…誰のせいでできたのだったか。……どうでもいい。
半開きの口をなんとなしに指で触れる。閉じられるのが腹立たしいのでこじ開けた。
熱い感触が煩わしい。人の体温が煩わしい。ここから余計な言葉が漏れるのだから、余計に。
舌が逃げていたのでつかんでみた。さすがに素手では引き抜けない。
つかんでいれば静かなのに。離すとやかましい。まあいいか。やかましくなにを言おうと、どうでもいいことだ。
脱ぐ間に逃げようとしていたので、とりあえずつかんだ。簡単だなと思った。なんでこの女はこんなに弱いのだろう。弱いから、こんなにも簡単にねじ伏せられるのに。
なんで一人で生きてこれたんだ。ああ。一人じゃないからか。今はわけのわからないガキしかこちらを見てない、おかしな廊下だが。いつもなら…どうせ誰かがいたんだろう。おめでたい人生だ、本当にイライラする。
下着を引き抜いて、現れた場所は閉じている。
指で開いている間は良いが、抜けばすぐ閉じる。濡れてはいるが。奥に入れずらい。押し返される。イライラする。この女が黙っていれば、そのまま挿れられそうだけど。抵抗されるのが、ともかく煩わしい。イライラする。
ああ、なら動くなくなるまでやればいいのか。これだけ暴れていればそのうち疲れるだろう。
腹のあたりの血の匂いが濃くなる。これだけ暴れればそうだろう。リンゴのような香りがする。理由は知らない。ただ、イライラする。イライラして仕方ない。
顔を見る。
泣いてないという癖に、響く泣き声が子供のようだ。
抵抗する力もあわせて、弱々しい。
弱い人間がなにをいったところで、誰も聞いてはくれない。
俺がこの女の言うことを聞く必要もない。
俺とお前は他人で、恋人でもなくて。ただの雇用関係で。
言うことを聞くのは仕事中だけ。その程度の仲なのだと、さんざん言ってきただろう。
何度も何度も、逃げろと言ったんだ。何度も何度も、それなのにうろちょろとベタベタと。そのくせに勝手なことばかりを。
だからこうなったのに。何の反応もしないのも腹が立つ。せめて泣けよ。つまらない。
こんな状況で無視するなんて、どこまで能天気なんだ。
何度も言ったのに、ちゃんと逃げろと。
ちゃんと逃げないと、ひどい目に合うのに。そう何度も何度も何度も言ったのに。
逃げないお前の怠慢で、傲慢だろう?
だから、全部、全部、全部。
お前が招いた結果なんだから、全部黙って受け入れろよ。
***
自分が大切なら近づくなと、言い残したメモがあった。
だから俺は離れた。
馬鹿な女は離れなかった。
相手が大切なら離れるなと、同じメモに書いてあったから、と。
血まみれのフロントで、性懲りもなく離れなかった女がにらんでくる。なんだよ。その顔。にらむタイミングが違うだろう。
家を出るといっただけじゃないか。自分ヤッた男とよく暮らそうと思えるな。今度こそ最後まで突っこまれて泣きたいのか。
ああ、自傷癖があったと聞いたな。ずっとコイツを守ってた女から。なんで治まったんだっけ。最近はどんな風だと言っていたっけ。どうでもいい。
実はぶり返したのだろうか。それか、あの女の勘違いか? 治まってなんてなかったのか。ああ、そうかもしれない。だからよく知りもしない人間をへらへらと拾うんだろう。ならそんなものに付き合いたくはない。
いや。違う。関係ない。
馬鹿みたいだから踏みにじりたい。二度とこちらに手なんて伸ばさないように。自分のことだけ守っていればいいのに。馬鹿みたいでイライラするから。
腹のあたりに、鈍い痛みがあった。
ふっと遠くなる意識の端に、人形みたいな顔が映った。拾われて半年の間で、初めて見た顔だと。そう思った。
***
意識を取り戻すと、縛られていた。
緩いなと思った。粗末だ。不器用なうえに力がない。救いようがない。
少し距離をとってこちらを見やる女の仕事だとすぐに分かった。
分かるくらいには一緒に暮らしたけれど。
今、人形みたいな顔をする理由がわからない程度に他人だった。
一人でエレベーターに乗っていったので、慌てて追った。
イライラする。
どうしよもなくイライラする。
状況と手に入れた情報と照らし合わせれば、俺がとりつかれているのは憤怒であっていたようだ。
……自分の中に元からある気持ちだから、憑りつかれたのだろう。
八神は嫉妬なのだと告白していた。
おかしなマリアとやらの反応からして、正解だったのだろう。
…あの女、自分のこと人と比べるって発想、あったんだろうか。
あの女の世界の中に…他人なんて、いた、のか。
誰も気にしていないのだと思っていた。劣等感がないから。満たされているから。そんなことができるのだと思ってた。
だって……
いつもいつもへらへらと。
自分が傷ついてもお構いなしで。
痛い目をみたことがないから、そんなことができるのだろう、と。それ以外思えなくて。
見ていないと死んでしまいそうだと、思わずもらしたことがある。返ってきたのは「見ていても死んでしまうような子だよ」などという、逃げ出したくなるような言葉だった。のに。
『最近は楽しそうだけどね』
御厨が続けた言葉がうれしかった。
―――うれしいと、思えるような立場じゃないのに。
「…八神、待て…、頼むから!」
こんな言葉を言える立場でもないのに。
だってまだイライラする。なにをするかわからない。
ただ、一つ気づいた。
なにかがふりきったような顔を、初めて見た。
わずかに色の違う両の目が、うっすらと細くなるのも。
ああ。疑われているのだな。
傷つけたのだな。
怒ったり、疑ったり、…痛いと、そういう顔をするのか。
……これまでは、本当に。
本当に―――信じてくれて、いたのか。
馬鹿な女だ。どこまでも。
なんで人なんて、信じることができるんだ。
なんで……俺なんて信じたんだ。
***
殴られると痛い。怒鳴られると恐い。とるべき行動がとれなくなる。身がすくむ。
……それでも泣くくらいはできる。
悪くないはずなのに、謝罪が口をつく。
それでも、誰も助けてなどくれなかった。
許してもくれなかった。
……。
……ああ、違う。
俺にもちゃんと、「誰か」がいたのに。
「……あんたは俺を助けてくれたのにな」
俺を助けてくれた「誰か」は、この女なのにな。
病院で眠る顔は、健やかだけど真っ白だ。
腹をぬったのだから、当たり前だ。
それで無理に退院してくるってなんなんだ、アホか。アホだ。知ってる。
留守にしてるといなくなるかと思ったからって、なんだ。
……なんで、止めるんだよ。
今かこちらの袖を握る手など、力をいれずとも引きはがせる。
引き留められる事実が、ただただ重い、それだけで。
都合のいいように解釈してしまう自分の頭を、ひきちぎりたくなるだけで。
両片思い(なお、前セッションで一方的に冷戦状態に入って「帰ったらちゃんと告白にこたえる」という約束を保留にしている)でいく純潔の証明はロール的には地獄でしたね。ダイス目的にはクリティカルとファンブル交互にでたから女神が微笑んでくれた気もします。実際割と重要なダイス目微笑んでくれたから。大体状況が悪化したの組付き技能もちに「組み敷け」ってくるわSTR強者に「暴力振るいたい気分やで」みたいな秘匿が…きたからだよね…いや全部性的欲求にしてもいいんだけどさ…あのハンドアウトで「好きだ」とは言えないから結局行きつく先は暴力っすよ…頭に性ってつくかつかないかの違いだけだよぉ! もう! 楽しかったです。抗うのが。「服を脱がす間はさすがに片手ですって!」「腰両手でつかむからからこぶしでぬけられるのでは!?」などあれほど真剣にSTRを半減させる手段を考えたのは初めてですよ…。
それにしてもキレイに日々思っているところが欲の対象になったの本当運命力がぱないなって思いました。
イライラしてるよなあ。いろんなものすべてに。あんまりに違う世界に生きてる初ちゃんに。本当はなによりも自分に。
嫉妬してるんだろうなあ、元々足のことも、腕力のことも。どこにでもいける体に。という。
二人とも色々足りないから寄り添えてちょうどいいのかもしれませんね。と、真面目にしめても、純潔の大体1か月半後に加茂井はゆえあって猫になりきり初ちゃんの膝の上でにゃーにゃーいうんだなって思うと深淵な気持ちになります。とてもシアワセソウダネ。めっちゃ幸せそうに喉ならした。
戻
鍋の中身をかきまぜていたら、腹のあたりに腕が回ったし、背中が重くなった。
ぬくぬくとやわらかいものが触れる。微妙に濡れた髪も首筋に触れる。頼むから乾かしてくれ。あと心臓に悪い。
「和君、お風呂入らないの? …こんな時間からお菓子つくるの?」
「こんな時間からは食わせない。作り置きだよ。…ばったんべったんと毎回御厨さんにパンこねさせてばかりで悪いから、具くらい作ろうかと思って」
「ジャムじゃないの?」
それは考えた。しかし、なにしろリンゴの時期だった。
リンゴの匂いがしてなんかゾッとしたからやめた―――とは言えない。
「ジャムはあるし、アンパンが食べたかったから。なにか作ってほしいジャムあるなら、作るけど?」
「ううん、あんぱんも好きだよ。
小豆煮える匂いっていいね。一口ほしいな」
「今砂糖入れたばっかだからたいして甘くない。10分くらい煮ろって書いてた。待ってろ」
「えー、今がいい」
「甘くなかったんだよ」
「分かるってことは味見したんでしょ? ずるい」
ずるいずるいと繰り返されるたびに、体の重心が少しかしぐ。押し付けられる。やわらかい。下着つけろよ。お願いだから。
「…わかった。一口な。じゃあひとまず離れろ。皿とってこれないだろ」
「君の手にお玉があるよね?」
「…あるな」
「はいあーんとかしてくれるといいんじゃない?」
「…そうか」
なぜそんな恥ずかしい要求をしてくるのか。よくわからない。乙女心とやらなのかこいつのいたずら心なのか、よくわからない。…イライラする。
そう、今もイライラする。割と頻繁に。
洗ったところで罪は残った。ぬぐえない。元かあるものだ。少なくとも俺にとってはそうだった。
ただ、イライラするのはコイツに対してではない。こんなアホなやり取りにムズムズと落ち着かない気分になる自分に対してだ。……もう、間違えない。二度と、間違えない。
だから、ため息をついて逃がす。ついでに杓子を動かして、小豆をすくって、ぱたぱたと仰ぐ。…そろそろか。
「ほら、口開けろ」
相変わらず簡単にぬけられる拘束から抜けて、振り返る。
充分に冷めたのを確認して差し出した杓子に、彼女はきょとんとした顔をした。
「ほら。言わなきゃダメなのか。…ハイ、アーン」
我ながら棒読みだなと思った。
けれど特に笑われることもなく、やけに素直にぱくりと口を開いた。
開いて飲み込み、そのままうつむく。
え、何その反応。
…自分から言ったくせに耳赤くなるのはなんなんだ。
「…ホントにするとは思わなかったなぁ」
「………」
あの思い出したくない夜のこと―――…以外にも、告白まがいなことをされて流していたこととか、その他もろもろ。
こいつに対する態度はひどかったと思っている。
許されるべきではない。信じられなかった理由なんて、彼女に関係ないことばかり。まるで非のないことで、コイツは理不尽に傷つけられた。
ただ……
こんなあざとく、いじましい生命体が天然で存在することについては、信じられなくても無理ないんじゃないか。マンガじゃねえんだから。
焦げると悪いので、火を切った。
風呂に入ろう。早急に。あがってからまた煮よう。今ちょっと、二人でいると、色々と。やばいから。
純潔がなくともムラムラのイコールというか、イコールに近いものだよなコイツ。というあれ。
『彼女を疑い、信じられなかった弱さを心の底から恥ずかしいと思ってる』『反省はしているがコイツがありえないレベルであざといくせに天然なのについては、ちょっと文句は言っていいと思ってる』みたいな気持ち。
この後めっちゃ風呂上りに飲酒止めてそう。
戻
加茂井和士は基本的に恋人の部屋が嫌いだ。
部屋というよりは、家の広さが嫌いだ。足に障害が残った女性を思いやったバリアフリー設計―――はまだ耐えられるにしても。個人が住むに十分すぎるほどの部屋をポンと用意できる恋人のバックラウンドが嫌いだ。
嫌いというよりは落ち込む。焦燥を感じる。それに命を助けられた身だが。だからこそ、焦る。住む世界が違うのだ、と。
それを理由に心変わりされるとは思っていないが、それを理由に他人になじられても仕方ないと思っている。もっと別の人間のほうが彼女を幸せにできるとか、そんな風に。
ただ。
ただ、その防音性には心底感謝している。
恋人の飲酒量についじれて大声を出しても問題がないし、ホラーゲーム見て悲鳴を上げても文句がこないし、恋人の友人がまな板を破壊する音が響いても問題がない。
「は……、あっ、あ」
足をばたつかせられても、ベッドがきしんでも問題ない。艶めかしい声が響いても外に聞こえない。
本当にありがたい。こんなもの他に聞かせたくない。
そうでなくとも嫉妬の種が多いのだ。同性異性年齢問わず、もういっそ哺乳類でなくとも聞かせたくない。
つながった部分から響く小さな水音も、シーツと肌が擦れ合う、音と言えない音さえも。何一つ聞かせたくない。
自分だけがいい。
自分はもっと聞きたい。
「ふ、あ…ぁ」
中途半端なところでとまっていた腰を進めて、片手を胸に添える。立ち上がった部分をなでるたび、甘い声が聞こえる。心音が速くなる。
今聞こえる音のすべてが、自分だけのものならよい。
自分だけのものなら、離れていかない。
離れる気がなくとも、人の縁はたやすく切れる。当人同士が切りたくないと望んでいたとしても、ふいにきれることがある。
だから近くにいないと。
こうして、隙間もないほどに。
ただ、苦し気な息が痛ましいと気づく。肌が温まった分だけ多少は冷えた頭で考えれば、奥すぎて痛いのだろうと予想もつく。
だから彼は少し腰を引いて、口を覆っていた手をどける。代わりに口づければ、ひきつけでも起こしているような息が聞こえなくなる。
体を寄せた所為で押しつぶれた胸の奥から響く心音は、さらにせわしい。そのことに、彼はうっとりと笑った。
***
事の起こりは一か月前で、離れていたのは、一か月だった。
学校の実習やら合宿やらが重なりに重なって、八神初は家を空けた。
連絡はマメに入れているものの、周囲の迷惑やらお互いの生活習慣やらを考えればなかなか電話がしづらい。そのくらいに忙しかった。
メッセージを入れるたび「早く寝ろ」「きちんと休め」とキツく言いくるめられ―――書き綴られているためもあった。
二言目には体をいたわれと口うるさいのだ、彼女の恋人は。
自分も強くないのになぁ。大丈夫かなぁ。
思っても連絡するタイミングがつかめない程度には、忙しい一か月だった。
さて。残された方といえば、一か月。
それなりに忙しくすごしていたし、それなりに―――沈んでいた。
一週間目は笑っている余裕があった。
思いのほか寂しいのが、なんとも。自分はずいぶんと甘ったれていたんだなと自嘲したが、それでもいいかと笑う余裕があった。
二週間目は気づき始めた。
どうやら落ち着かなくなるのは一人で帰ってくる時だ。そう気づいた和士は対策を練った。気はとがめたが、家を出るときに電気をつくと落ち着いた。
三週間目は、帰ってきたとき明るいだけではだめだった。
悪夢を見た。今落ち着かないのは―――思い出しているのは両親がいなくなった時だ。
違うとわかっていても、電話をするための機械は沈黙したまま。こんなことで体調を崩してはいられないと、慣れない酒を飲んで寝落ちしてみた。
四週間目は、溜息が増えた。
頭では、違うことがわかっている。戻ってくると知っている。疑ってなどいない。
それでも―――……
「…落ち着かねぇなぁ」
意味もなくつけたテレビに、意味もない言葉をもらして。青年はそっと目を伏せた。
そんな風に、せわしく鬱々とすごした一か月だった。
「ただいまー!!!」
そんな一か月を終わらせる声は、高く弾んで響いた。
ドアを開けるのと同時にタックルをかけてくる小柄な体に、ドアのチェーンを外した青年はわずかにかしぐ。
それでも倒れなかったのは、予想をしていたからだ。
予想というか予定よりずいぶん早い帰宅ではあったが。
「…呼べば迎え行ったぞ。荷物多いだろ」
「大丈夫、送ってもらったし。明るいじゃない」
それに、早く帰りたかったし。
照れた声色でささやかれる言葉と、さらに密着する体がちぐはぐだ。
なぜそこで照れ、これには照れないのか。
彼はいつもそう思う。そう思うし、とりあえず抱き返す。いつものように。
ただ。
一か月ぶりのいつもはずいぶんと心臓に悪い。心臓というよりは、頭がガンガンする。
夢と違い抱き返すとあたたかく、ほっとするような香りがした。
少しばかりほっとした彼は、じわじわと気づく。
温かさが身に染みる。身を寄せられるとほっとする。
だからもっと近くがいい。
首に回された彼女の手をそのままに、彼の手だけが動く。
背中を支えていた手がするりと下がり、わずかに膝を折り、相手のひざ下へ手を滑り込ませる。要は、ひょいと抱え上げる。
いつも通りといえば、いつも通り。
けれどもあまりに唐突な行為に、初は「え」と声を上げる。
声を上げ。相手が無反応。そうして、事態に気づいた。
―――あれ? なんだかまずいことになってるのかな?
「おおーい!!加茂井くん!!まだ!!荷物片付けてないよ!!!」
「それは後でするから」
すたすたと歩く音が廊下に響いて、ぱたんと扉を開ける。
1か月ぶりの自室に腰を落ち着ける前に、とすん、とベッドの上に転がされた。
起き上がろうとするよりもはやく、顔の傍に腕がある。見上げればひどく真剣な顔をした恋人がいる。
その片手が、するりと頭をなで、耳をなで、あごを伝い、ワンピースの襟元に入ろうとし、ようやく声が出た。
「まって、せめて、お風呂…」
ぴたり、と手が止まる。
手が止まる割に、不満の色が隠れない目が彼女を見る。
なぜと言いたげな顔だ。こちらがなぜと聞きたい。なぜこんなことに、と。
「汗かいてるし臭いから…」
ただ、それを聞くよりも簡単なはずの方法を選ぶ。
初の目の前で固く引き結ばれた唇が、何事か言いかけ、小さく息を漏らす。
「…わかった」
「うん」
無事にベッドから下りた彼女は、ひとまずコートを脱ぐ。
ただ、クローゼットに行きつくより早く、視界が上になる。抱え上げられる。
言うべき言葉を探すより早く、すたすたと風呂場にたどりつく。
なんでこんなことになっているのだろう。
いつもと立場が逆だ、いつもなら一緒に入ろうと言ってもあれやこれやと怒られるのに。
悩む間にもらしくない手が進んで、すとんとワンピースを脱がす。
下着に手をかけられた時点で真っ赤になって首をふれば、そうか、と短い声が返った。
「…あの、和君、どうしたの…?」
「……別に、なにかしたわけでないけど」
「うん」
「はやいとこやりたいと思って」
その顔に笑みはなく、声に甘さはなく。
ただ、なにかを押し殺すように淡々とした声色と、彼女の背中を汗がつたった。
***
シャワーは長旅の汗も不穏な冷や汗も等しく洗い流す。
髪の汚れも落として、それでもわずかに肌が冷たい。
だからお風呂に入っている。
それはなにもおかしくない。むしろこれが当然だ。自分をしっかりと抱え込む恋人がいなければ。
そもそも髪まで丁寧に洗ってくれた。おかしい。そんなのいつも頼み込んでも成功率は半々なのに。照れるとか甘やかしすぎるのはどうなんだとか、長々と色々といわれるというのに。
―――意識がない間にお風呂に入れられていることもあるようだけれども、初としてはそれとは別のことだ。だって、覚えていないのだから。嬉しいがもったいない。
そう、もったいない。もったいないくらい頼まなきゃしてこないというのに。
そもそも―――…ほかほかとたっぷりと浴槽を満たしたこのお湯も、玄関に入るなりふわふわとただよってきたコンソメの匂いも、いつも通りに過ごせと言わんばかりだったといううのに。
腰をしっかりと抱いていた手が、わずかに緩む。緩んで、下に滑り落ち、彼女は大きく声をあげた。
「ストップ!!! お風呂上がって髪乾かしてからやらないと風邪ひくって!!!」
強い静止に手はとまる。
しばらくすれば行儀よく腰に戻って、ぎゅうと強く抱いてくる。
「わかった」
「う、うん」
やっぱり声は平坦で、どうにも不穏だ。
何かあったのかと聞くべきな気がする。
けれど、同じくらい聞いてはいけない気がする。
悩む間に、するりと手が離れる。ぱしゃりとお湯がはねて、振り返れば浴槽から上がる背中が見えた。
「……はやくあがってきてくれ」
ならそのセリフは逆効果だ。
なにをするかわかっていると、非常に上がりづらい。はずかしい。
―――けれど、予想に反し。
風呂から上がると「とりあえず飯」とあったかいシチューが待っていた。
いつもならごはんとおかずがあるところなのに、パンが浸してある辺りは早く食べろという圧がなくもなかったけれど。カリカリと焼かれたパンが上に、底にはしっとりと底にパンがあるあたり、考えすぎかもしれない。
食べてる間にタオルとはいえ髪を乾かすのもいつもならありえない。行儀が悪いと怒るはずだ。
なにもかもらしくなく、なにもかも性急だ。
触れてくる手が優しいが、どう考えてもおかしい。
そして、今。
食事を終えてあたたかいドライヤーの風を受けつつ、初は内心うめく。
なんだろう。うれしいし気持ちいいのだけれど、そう。
―――下ごしらえでもされてるみたいだなぁ。
浮かんだ言葉を彼女は口にしなかった。
しっかりと乾いたのを確認するなり、やっぱり抱え上げられ、すたすたとベッドにつれこまれたせいで。
連れ込まれて手際よく脱がされて、もう問いかけるどころでなくなってしまったせいで。
***
重ねられた舌が、わずかに動く。舌で舌を包んで丁寧に吸う。。
限界まで入っていたものは少し引いたけれど、強くつかまれた腰では逃げることができない。逃げる気はないけれど、息が苦しい。鼻で息をするってなんだろう。
ただ、それに関しては相手も大して変わりない。ふっと口が離れ、その合間に彼女はつぶやく。訴える。
「…もう、いい、から…」
「…うん?」
相槌とも疑問ともとれる声とともに、女の体にかかっていた体重が消える。
けれどつかまれた手のひらはそのままだ。寝ころんだまま手だけが引かれ、指先に口が触れる。
「もう、嫌? 無理? …駄目?」
「そうじゃなくて…」
やわらかい頬が赤く染まる。ためらうように、言葉を探すように唇が何度かさまよい、そっとささやきが響く。
「うごいて、だいじょうぶだから」
真っ赤になって目を閉じた初は気づけない。
いっかいおわらせて、と。続いた彼女の言葉に、自分を見下ろす男の唇が不満げに尖ったことを。
「…終わらせたくないんだけどな」
「え?」
低くつぶやくと、ぱちりと目が開いた。
和士とて、不思議そうにまたたく恋人を見ていれば、他意はないのだろうとはわかる。その程度には冷静で、何でもない言葉が気にかかる程度には張りつめている。
だから、何も答えずに腰をつかむ。ゆっくりと動かせば、自由を取り戻した両手が口と顔を覆う。
はじらう仕草がかわいらしいので、別にかまわない。それに、手をどかすよりしたいことがある。
つながった場所を見、そこにある腫れた部分をなぜる。それだけで肩がはねて、ぶんぶんと首がふられる。
声にならない静止は無視して、軽く指の腹でつぶす。
「あっ…あ、うぁ…」
「…っ、締められると動けねぇ」
「ふぇ、…きゃあ! ん!」
腰の代わりに足を抱えて軽く角度を変えても、やはり動きにくいものは動きにくい。
動けない分押し付けると、ぎゅうぎゅうと締められて、すぐに限界を迎えそうだ。
「気持ちいい? すげえビクビクしてるけど、いい? なあ、聞いてる?」
男の絶頂はすぐにわかるからいいけど、女はわかりづらくて困る。聞かないとわからない。
とはいえ、申告させるのはかわいそうだとは思っている。自分だったら嫌だ。そんな実況するのは、と。
うっかり尋ねるとこれ以上なく赤くなり、のぼせそうなので心配にもなる。いつもなら。
「いれられて一緒にクリ潰されるの気持ちいい? じゃあ覚えて。自分じゃできないから俺が要るって。なあ、…だから…ちゃんと帰ってきて」
ただ、今は。
とぎれとぎれに上がる声も、静止の声も、快楽を訴える言葉も。すべて聞きだしたい。
熱に浮かされた頭で、なあと笑った。答えはロクに紡がれず、ベッドのきしむ音だけが大きくなった。
***
目が覚めると、時計が10時すぎを示していた。
そのことに気づいた和士の顔がサアと青くなる。ついで、自分がしっかりと抱いているもの、もとい人に気づいて赤くなる。
おざなりにパジャマだけはおらされ、すやすやと健やかな―――疲れ果てた寝息を立てる恋人は起きる気配がない。
「……初?」
恐る恐る声をかける。やはり起きる気配がない。軽く頬も叩いてみても、反応が変わらない。
眠る前に割とカーテンの奥が明るかった覚えも、少ない体力を使い果たすような無茶を強いた自覚も、少し身を離すと目にはいる赤い跡の理由も、その腰のあたりに若干手の後が残ってる理由も、しっかりと覚えてる。
彼女の部屋のベッドがどうやっても寝るには向かなかったので、こちらに移ってきた記憶もある。
「………」
すべてを覚えているので、いたたまれない。
ゆっくりしてほしいと思っていたはずなのだが。長旅だったから疲れているだろうと、そう思っていたのだが。
「………………」
起きたらなんと言い訳しよう。
何を言われても、なじられても、ごまかせずに言った方が今後のためではあるだろうけれど。
声が聴けないのは思いのほか堪える、なんていう、どこまでも情けない話でも。
人のいない家に帰るの怖くて衰弱するんだろうなぁ、やりとりから派生した話。
この後引かずに「次は気をつけてあげないと」ってなるのが愛な気もするし怖い気もしますね。どっちもどっちだよね、って。
でも「念おされなくてもかえってくるもん…」と怒られそうではある気がする。らぶらぶだね?あと強いお酒が減ってて怒られそう。
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