同居一日目のお話

 フライパンにバターを落として、タマネギを炒める。
 しんなりしてきたら、小麦粉を落とす。
 ダマができないように気を付けて、根気よく。
 頃合いをみたら牛乳で伸ばして。レンジであたためたニンジンとほうれん草を追加して。次にエビなんて入れてみる。ちょうどよく煮えたマカロニは、女性だからと選んでみたリボンのアレだ。
 部屋中に広がる、バターの香り。
 くつくつと煮えていく、我ながら目にも美味しそうな食材たち。
 …こんな人間らしいメシは久々だ、案外作れるもんだな……
「あ。おいしそうですね」
 ……なんて、ひたってる場合じゃねぇよなあ。
 キッチンを貸してくれた女性の方を振り向く。
 今は椅子に腰をかけた彼女は、不思議そうに首を傾げた。

「どうかしましたか? 加茂井さん」
「…どうかしたつーかさ、…本当にいいんですか、あんた」
「好物はグラタンで間違いありませんよ?」
「そっちじゃなくて。マジで俺をおいてくれるの?」
「ええ、言ったでしょう?」
「聞いたけどさ…」
 まじまじと彼女を見る。改めてみる。
 可愛らしいといって間違いない女性は、不思議そうに言う。
 不思議なのはこちらだ。
 なんだその、可愛そうなものを見る目は。
 いや確かに俺は可愛そうだが。我ながら。
「……繰り返すけどさ。八神さん。ご自分の性別への自覚は?」
「それも言ったじゃないですか。おかしなこと、しないでしょう?」
「……そりゃあしませんがね?」
「ならいいじゃないですか」
 いや良くはないだろう。
 あんたの好みはマトモなタイプなんだろう。マトモじゃないのを家に上げるな。
 ――――他人を。そんなに。簡単に。信用するな。

 浮かんだ言葉に舌打ちしそうになって、お玉と耐熱皿を手に取る。
 急に背中を向けた俺に、彼女は何も言わなかった。

***

 …そんなに簡単に人を信用してどうするんだ。
 人は簡単を裏切るのに。
 俺は借金がいるといっただろうに。
 金をとっていくとは思わないのか。
 しかも足が悪いんだろう? 好き放題されてしまうだろう、その気になったら。
 なんでんなに簡単に信用するんだ。あんなおおかしなところであった、おかしな人間を。

 焼けていくグラタンを意味もなく見ながら、やはり舌打ちしたくなる。
 あのおかしな空間で、彼女は誰も疑っていない風だった。
 あんな状況でさえどこかほえほえと、今はあやしい異性と二人きりだというのに、ほえほえと。
 ………警戒している俺があさましく思える。
 違う、あさましくなんてない。
 当たり前じゃないか、そのくらい。
 それが当たり前で、人間なんてそんなもので……
 チン、とオーブンのタイマーが焼き上がりを告げる。
 扉を開けて取り出したグラタンは、こっちの気も知れずに中々のデキだった。

***

「おいしいです」
「…そりゃよかった」
 行儀よく手を合わせた後に焼きたてのグラタンを口にして、八神さんが笑う。
 つられて笑ってしまいそうなくらい。和やかな笑顔だ。
 …いや本当、前にもヒモを拾ってたとか聞いていなかったらうっかり惚れかねない。
 聞いてしまった今、そんな色々ありそうな女は嫌だが。
 ……いや。違うか。
「…そんなに深く考えなくてもいいんですけどねえ。他意はありません。かわいそうだな、って思っただけです」
「俺は何も言ってませんよ」
「言いたげな顔をしていましたので」
「……そうですか。…まあ、言いたいことそのままですよ。…うん。カウンセラー目指してるっていってましたもんね。そりゃ分かるか」
「…あなたは特にわかりやすい気がしますよ?」
 おかしそうに笑う彼女に、こちらもぎこちなく笑い返す。

 …別に、会い方が違くても。ヒモの一件を聞いていなくとも。
 この女に惚れることはなかっただろうな。俺が今の俺ならば。

 直視するのには少し眩しい笑顔に、苦く笑うことしかできないのだから。

 まさかお持ち帰りエンドされると思わなかった。笑った。実に笑った。そして加茂井は八神さんのことがすごく心配だけど、色んな意味出ていくべきだなあ、と思いながら。しばらくいすわるんじゃないですか。金稼ぎたいから。
 また同卓できたらいいですね!
 2018/02/01
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猫だと思って精神の安定を図ってる

 猫のようなものだと思うようにしていた。
 毛並みがいいし、かわいらしい。世話をするとその分満たされる。
 けれど別に自由にならない。
 うん、猫だ。
 猫は下着を着ないが、猫だ。
 うん、下着を洗うことに関しては「仕事」と思うと気にならなくなったし。
 そう。猫だ。猫、猫、猫。
 そう思うことにしていたのだ、本当に。
 成功もしていたんだ、本当に。

『しまいにゃ襲うぞ』
『別にいいよ』
 猫だと思うことに成功していたと思う。
 猫を抱え上げても、こちらに重心預けてはくれないが。
 猫はあんなこと言わないし。
 猫にあんなこと言われても気にならないけれども。

 猫ではなく人間に言われれば、ものすごく動揺する。
 段差のない大変すごしやすい部屋で壁に指ぶつけるくらいに。

「……痛い」

 思い切りうちつけた足のつま先がえらく痛い。
 頭と心臓が痛いことからは、そっと目をそらした。

***

 彼女のことを何も知らない。
 聞いてしまえば、その分距離が近くなる気がする。
 何も知らずとも一緒に暮らしていられるし、知ってしまえば後戻りできなくなる気がする。
 ……後戻りできないくらい入れ込んだところで、できることは特にないし。
「銭湯の終わりはコーヒー牛乳ですよね」
「そうか」
「飲まないんですか? フルーツ牛乳派?」
 首にタオルをひっかけた彼女が首をかしげる。
 かわいらしい仕草で、かわいらしい女性だ。
 ……女性がかわいらしいのは別に男のためではないとよく聞くけれど。
 それをいうなら、好きとか、そう、恋とか関係なく「かわいいな」と思ってしまうのも男というか、人のサガだと思う。
「しいて言うなら何も入ってないのが好きだな。…買ってくる」
 顔をそらすような気持ちで背中を向ける。
 いってらっしゃいの響きはやはり呑気で、何とも言えない気分になった。

「加茂井君?」
「なんですか」
「なにか疲れてる?」
「…疲れているといえば疲れてるけどな。別に心配されるような疲れ方はしていない」
「眉間にシワがあるけどね」

 黙り込むと、けらけらと笑われた。
 やっぱりわかりやすいね。と笑う彼女も案外わかりやすい。
 はかなげな容姿のわりに、筋は通っている。筋は通っているのだけれど。
 だからこそ思う。合理にそっていない、身勝手な悪意にさらされた時、彼女はどうやって身を守るのだろう、と。

 夜の空気が冷たい。
 手をつなぐような仲ではなく、ただ、車いすのわきを歩く。車道側を歩く。

「…風呂上りだなと思って」
「いつも見てるじゃないですか」
「それがいつもなのが割と問題だと思うんだけどなぁ…」
「ふふふ」

 なにがおかしいというのだろうか。いや、いろいろおかしいけどな。この状況。
 まったく、本当に…本当に、おかしな状況だ。色々と。

「性別を自覚しろ、でしょ」
「言いたいことは覚えてくれたようでなによりだよ」
「覚えてるけど。…でも変なこと、しないでしょう?」

 やわらかい笑顔は豪胆なのか呑気なのかわからない。
 ただ、やっぱり先日のアレは夢落ちだろうかと思う。…ほっとする。
 ニコニコ笑う顔はかわいらしく………
 それ以上に人がいいから、どうにも、こうにも。手など出せるハズもないので。

 加茂井君の八神さんへの好感度というか自己評価は「手を出すぞ」じゃなくて「襲うぞ」なのがとってもすべてな気がします。ここで手をだしたら暴漢。あとこの女色々やばいし。やばい。やばいんだけどなあ!って思ってる。
 でも色々安らぎとか見出しているとも思いますよはははは。
 2019/10/09
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苦労しすぎてかまぼこのように板についている

 人にやさしくすれば自分に返ってくる。
 …かはわからないが、悪意は返ってくる。
 だから人に優しくしなさい。それが父の口癖だった。

 ふにゃふにゃと笑う父のことが、嫌いではなかった。当時は。
 今は割と嫌いだ。嫌いというか、ただただ…バカだなと思う。
 父の借金律儀に返してる俺もバカだなと思うが。
 失踪直後に取り立てが言った言葉が耳にしみつく。今も。

『お前が払わないなら、オヤジの内臓だよな』
『自己破産? それよりお前が払ってくれた方が金になるなぁ』

 友人の願いをホイホイ聞いて連帯保証人を引き受けた父は愚かだ。
 その父を見切れない俺も、愚かだ。

 父が借金を背負ったのは、高校に入ってすぐのことだった。
 額は……一般市民の生涯収入くらいに膨れ上がっていた。利子でパンパンだった。
 そして、額よりも借りたところが問題だった。借りたのは父ではないが。
 執拗な取り立て、アホみたいな利子。不正を訴えたものの、なんか脅されて終わった。
 高校は…高校だけは、母の実家の支援で出れることになった。
 ただ、足りない。
 いろんなものが足りないので、ともかく働くことになった。

 ……そのこと自体は、そこまで嫌でもなかった。
 バイト先はシフトで気を遣ってくれたし、いいやつらだったし。
 あきらめたことはたくさんあった。嫌な思いもたくさんした。目が回るほど忙しかった。
 ただ、おかえり、と。
 家に帰ると響くおかえりの声が、俺は多分好きだった。家族を守れることが、たぶん、誇らしかったのだろう。

 ………。
 人を殴って詰って金を取り立てるよりは、父のような人間の方がマシだと思っていたし、今もそれも変わらないが。
 ガキだったなあ、と思う。
 何かを守るとか、誰かを支えるとか。そんなの、恵まれた人間ができることだ。
 一人で生きていることも必死な当時の俺に、できるはずもなかったんだ、本当は。

 だから両親はいなくなった。
 俺の卒業まで待ったことが親の愛情だったのか、それ以外の事情だったのか。それはよくわからない。

 卒業して、会社の寮に入った。
 狭いし壁は薄いし飯はマズイ。
 それでも、ガンガンと扉が殴られるあの家よりはマシだった。働けば働くだけ金がたまるのも、悪くなかった。ほとんどとられたけど。
 だから、別に。一人でもよかった。
 ……利子があがったとかで、寮までおしかけられるようになるまでは。会社までおしかけられるようになるまでは。
 最初は同情されたが、慣れれば迷惑がられた。仕事に必要な連絡がこなくなった。あらぬ噂の声が耳についた。
 だから、辞めた。
 辞めて、全国を回るようになった。
 ……どう考えても返せる額ではないのだ。この借金は、おそらく別のに押し付けるまで続く。もう、そういう仕組みで回っている詐欺だ。…詐欺じゃないか、脅迫だ。
 きちんと…もう一度きちんと弁護士なり警察なりに相談すれば…あるいは、どうにかなるのだろう。
 ………ただ。

『別にさあ。ゆっくりでいいんだよ、ゆっくりで』
『返してもらえればそれでいいんだ』

『君さあ、オヤジと母親、どこにいると思ってる?』

『違うか』

『オヤジとお袋、一緒にいると思ってる?』

『別に金にならなくても、それだけじゃない価値とかあるよなァ…。人妻の体とか』

 要は、母の身柄を守りたきゃ警察に駆け込むなという脅迫だったわけだ。
 実際は両親がどこにいるのか、俺は知らない。
 ただ、脅迫とは実行されないからこそ価値を持つ。
 恐れと憂いが足を縛る。

 ………あるいは。
 父も母も似たようなことを言われて、俺たちはお互いを質にとられているのかもな。と。
 そんなことも思ったけど。
 そんなことも思ったけど、気まぐれに取り立ては来るし。両親は見つからないし。…ほかの人間に押し付けるのも、高校にして社会的地位が地に落ちた俺にはアテがない。
 どうしような、積んだ。
 いや、積んではいないのか。母なり父なり見捨てればいいだけなんだから。

 ああ。それでも、でも。
 でも―――と。
 もうどうよもない頃だった。
 あのおかしな一件に、巻き込まれたのは。

『じゃあうちに来ます?』
『は?』
『以前も男の人と暮らしてましたし』
『は!?』

『…えっと、じゃあ…好物は?』
『グラタンですかね』
『…じゃあ、作ります……?』
 おかしな一件にまきこまれて、おかしな女に出会ったのは。そのころだった。

***

「八神さーん、八神さん。…寝ないでくださいよ、こんなところで」
「んー」
「酒に強くないくせに飲まないでくださいよ…」
「家だからいいじゃない…?」
「家だけどなぁ」
  恋人でもない男 おれ がいるだろう、と。言いかけてやめた。
 代わりに抱え上げて、ベッドに運ぶ。
 うにゃうにゃと寝ぼけた声とともに重心を預けてくれる体から、自分と同じシャンプーの香りがするのが、実に色々と…若くて健康な童貞には色々と毒だなと思った。

 ベッドに横たわらせさせると、父にも、母にもまるで似ていない顔が近い。
 ただの一宿一飯ならぬ同居の恩義だし、心持としてはヘルパーだ。少なくともこうして手を貸していることに関しては。
 …女の子、というか。困ってる人には優しくしろ、は。両親ともに口癖だった。恥ずかしい両親だったが、特に間違っているとは思わない。限度を超えていたことは、愚かだと思うだけだ。
 足が悪い、一人暮らしの女の子。ああ、とても優しくするべき属性だ。助けられたのは俺だが、やさしくするべき相手だ。どう考えても。
 ただ、ベッドにおろしてふにゃふにゃ言っている姿を見ると思う。手を出しても罪に問われない気がする、などと。
 ただ…ただ。
「……、……おやすみ」
 馬鹿みたいにうれしかったのは、毎日取り立てにおびえずに済むことでも、家があたたかいことでもなく。
 君が俺におかえりと言ってくれた瞬間だと、出ていく前に一度くらいは伝えたい気もした。
 いってらっしゃいも、ただいまも。
 二度と聞けないと思っていたから、本当にうれしくて。裏切る気になれなかったけれど……次の同居人は女にしとけ、とだけは。
 きちんと伝えたいような気がした。

 いつか出てくつもりでいるけど次の同居人が男だったら嫌だなと思っているのが保護欲か独占欲かとっても微妙なライン。
 本人は保護欲だと思っているし。
 2019/10/09
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洗濯もののあれやこれや

 高校時代は飲食業界。
 卒業後、ほんの少しだけ営業。
 その後は日雇い中心。道路整備したり工場の現場にいれてもらったり(雑用しかできないけど)。
 イベントの搬入スタッフとか会場整備とかまあ、ともかく色々。
 和やかなものからそうじゃないものまで色々とあった。
ヘルパーだの家事代行だのは初めてだ。あれは色々と資格がいるから。
 そう、初めて。
 しかし仕事だ。仕事仕事。なにもやましくない。
 ………。
 ………この手のもの、自分で洗濯するか聞いておくべきだった。
しみじみと思うけれど、カゴに入ってしまったものは仕方ない。
 知識はある。…母も母で忙しかったので、洗濯ものくらいはしていたし。それに使ってるんだろうなというネットも分かりやすいところにあった。別に困りはしない。
……母親のものだと思うのは名案な気がする。
 そう思うとまったくちっともかけらもありがたみがなくなった。色々なえた。というかちょっと気持ち悪くなった。よし、今後やばい時は思い出そう。
 …でも一応聞こう。
「…八神さん、洗濯物ですが、自分で洗いたいものはきちんと分けて」
「下着? 変なことに使うの?」
「使わねえよ! 雇い主にいちいちそういうの考えてたらダメだろ!?」
「うん、だから困らないんじゃないですか?」
「……困りはしないが」
 あんたのいろんなものが擦り切れる気がして、俺はとても心配だけどな。
 口に出すのも違う気がして飲み込んだ。
 自分で作った味噌汁がなんか苦い気がした。

 いつか出てくつもりでいるけど次の同居人が男だったら嫌だなと思っているのが保護欲か独占欲かとっても微妙なライン。
 本人は保護欲だと思っているし。
 2019/10/09
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家族にはなれない

 家族のようなものだといわれた。
 それは困ると思った。
 そんなものはもういらないと思った。
 もういらない、はず。だった。


 出ていくつもりだった。
 半年くらいで出ていくつもりだった。
 そういうつもりで夜のコンビニのバイトに入った。夜に女と二人きりというのも問題だろう。
 別に手を出して仕方ない、とかじゃない。
 …あらぬ疑いをかけれるスキを失くしたい。
 後ろ立てのないハウスキーパーというのも恐ろしかった。いつ窃盗の疑いをかけられるかわからない。かけられたところで、かばってくれる相手はいない。
 ……そう思っていたのに。

『昼間に家のことして、夜も出て行って、加茂井君いつ寝てるんですか?』
 あなたの家の家事はそこまで手間じゃないと伝えた。
 心配そうな顔をされた。
 …本当に心配なのか怪しいと思っていた。
『…足りないならお金増やしますよ?』
 ああ。これはだめだ。
 深入りするとマズいタチの女だ。耐えられない。
 呑気で馬鹿みたいで、耐えきれなくなる。
 だから一か月後にバイトを辞めた。
 それはそれは嫌な顔をされたが、別にいい。どうせ二度と会うことのない人だ。
 そしてそのまま出ていくつもりだった。
 深夜コンビニ以外にもいくらか仕事をしていた。いくばくかの余裕ができたから、しばらく健康に過ごせそうだ。
 …そう思っていたのに。
 夜出ていかなくなった俺に、その女が嬉しそうに笑うから。
 あんまりにうれしそうに、笑うから。
『キチンと休まないと体に悪いですからね。お祝いしましょう』
『何の祝いですか』
『加茂井君が自愛を覚えたお祝い…?』
 お祝いって言っても俺が飯作るし見よう見まねでケーキまで焼いた。
 イチゴ並べる顔が子供みたいだったから、つい間違えた。

 そう、間違いだ。
 あの顔で間違えて、つい居座ってしまった。

 3か月がたった。
 おかしな場所に拉致された。

 おかしな場所でおかしな女はやっぱりおかしい。緊張感がない。
 この部屋の内容からして孕まされるのはお前だろう。
 俺がハラますほうなのか単純にお前への人質なのか見せしめに殺される役なのかはわからないが。
 絶対にお前のほうが危ないのに、能天気な。

 おかしな施設から脱出できた。
 後ろに下がれと言ったのに殴りかかっていったのはどうかと思うが…どうせ離れられても腕2本分だ。あの状況ではさほど安全性に変わりない。
 ……なのに、なんであんなことをいったのだろう。
 この女が囮になってその間にどうにかしてくれた方が、よほど……………。

 理由など考えるまでもない。
 それでも、形にするわけにはいかなかった。

 宿をとれた。
 どう見てもラブホだった。

 まあ、安いしな。
 手錠して歩いててもツッコミ入らないしな。
 ちょうどいいよな。

 だから騒がないのなんて、好都合なはずなのに。
 なぜ騒がないのがあれだけ不快だったのだろう。
 ……嫌だったのだろう。
 簡単な話だ。
 他にもこんな態度なのかと、そう思った所為だ。

 だから脅しつけたつもりだったが、俺ではもう脅しにならないようだ。
 光栄なことな気がするし、面倒な気もしたし、苛立つ気もした。
 腹を触った時は…おびえているのとは違う。
 たぶん、なにかを見られたくなかったのだろう。
 ざわりとした手触りを考えるに、傷でもあったのかもしれない。車椅子だ。事故にあったのだろう。

 …少し愉快な気分になった。
 なぜ愉快な気持ちになったのか、よくわからない。
 わかりたくなかった。

 思ったよりよく眠れた理由も、考えたくなかった。

 次の日も手は離れなかった。恋人つなぎのまま。
 …八神の態度は変わらなかった。
 恋人と間違われても訂正しない。
 この状況で否定しても信じられないだろう。…だから仕方ないことだ。仕方ないことなのだが。
 もう少しうろたえればいいのにと、やはり思いはした。

 ようやく手が離れた。
 ようやく毒から逃れる手段を得た。

 そのために手を斬れと言われた。
 それしか手段がないなら……仕方ないかもしれないと思った。

 アイツが斬ろうとするのは予想していた。
 手がかりを確認するのが先決だと言い張った。
 言い張ったつもりだった。
 ……けれど。
 あっさりと腕が落ちた。
 止める暇もなかった。

 何一つ言わずにされたら気づけない。止められない。

 相手が泣きもせずにいつも通りだから……泣くこともできなかった。

***>

 

 帰ってきてすぐに思ったのは、出ていこうということだった。
 ああ、このままではだめだ。
 誰かになにかをできる身の上ではないくせに、深入りしてしまう。しかけた。
 お前が死ななくてよかったと、そんなことを言いかけた。

 すぐにすべてを放棄するのは無責任でも、とりあえず家は出よう。車はそのままだし。車があれば死にやしない。
 そう思っていたら、溺れ死をされかけた。
 …わかっていたのだろうか、出ていこうとしたの。
 ……いや、わかっていたら止めるのか。こいつ。

 何もわからないと思った。
 ただ、傷を見た時思った。
 傷を見て種類なんざわからないが。多分事故かなにかだろうと思う。
 反応からして、見られたくなかったのだろうということも予想はつく。
 気味が悪いとも思った。そう思われたくなかったのだろうということも分かった。
 ただ、ただ……ただ。
 全身に走る傷が古いことに安心した。
 もう開くことはない、古い傷であることに……いま彼女の命を脅かしはしないことに。
 ごまかしようがないほどに、安心していた。

 安心して、苛立った。
 だって、お前はこんなに弱いのに。
 笑っていても、傷だらけなのに。
 …どうして誰も守ってやらなかったんだ。

 きちんと守ってくれる人がいれば。
 きっと、俺なんて見向きもしなかっただろうに。

 出ていくはずだった。
 眠るのを見届けたら、出ていくつもりだったんだ。

 それをしたら、こいつ。泣くのだろうか。

 それとも。
 それとも、また。あっさりと別の相手を見つけるのだろうか。

 眠る息は乱れない。
 あんまり静かで、身じろぎもしない。
 片手で押さえつけることもできる体だ、上から体重かけられたら抵抗のしようもないだろう。
 ホテルの続きをしようとしても邪魔が入らないことまで、ご丁寧に教えてもらってしまった。
 …続きをしたら。
 この女はきちんと意味を理解するだろうか。
 こんなこと好きじゃなくてもできる。傷があろうとみようとしなければ意味がない。ようは下半身あれば…穴さえありゃいいようなやつだ、君の尊厳無視した時点で。
 ……そういえば、きちんと危険を理解するだろうか。
 …………都合のいいほうに、とるのだろうか。
 俺がお前が好きだとか、そんな風に。

「…好きじゃねぇよ」
 誰かを好きになる余裕なんてない。
 …誰かを幸せにできる余裕なんざない。

 結局なにもしないで布団をかけた。
 3か月と少しの間、何度か繰り返したことだった。

***>

 

 出ていくに出ていけなくなったので、少し話を聞こうかと思った。
 だから彼女の友達だという女性に会った。
 ひんやりとしている割に、八神にやさしいのはわかった。
 やさしく、こと介護という意味では役に立たなそうなことが。

 納得もできた。
 これだから彼女は警戒心がない。
 守るものがないから、警戒心がない。
 自分が守る対象ではないから、簡単に捨てようとするんだ。

 そうか。と思った。
 そうか、あの女が生きる意味を得るために、俺は拾われたのか。

 きちんと打算があったことに安心した。
 そんなものは打算じゃないと絶望した。

 虐げられてきたんだろう。
 理不尽に気味悪がられてきたんだろう。

 写真の中の顔は、あんなにも暗いのに。

 なんで今はああなんだ。
 なんで…人を守る方を、選んだんだ。

 そういうところがこの上なく嫌いだった。
 そういうところが…変わってほしくないと思った。

 好きではない。好きになれない。好きになったら、……俺は彼女になにができるというのか。

 借金のことがなくとも、返せるものなどない。擦り切れた。全面的に信用することさえできないのに。

 逃げるなら二か月前だった。
 この女はどこかおかしいと思った、あの瞬間。
 今は無理だ。
 今は、だって、こんなにも……

 言葉にしたら、終わってしまう。

***

「おかえり、…茶でも入れようか」
 目が真っ赤な姿に「どうかしたのか」がこみあげる。
 こみあげて、飲み込んだ。
 うまくかみ砕けずに、腹が重い。
「これ、お土産」
「…ありがとう」
「ごめんね、お祭り会場なぜか携帯が圏外で遅くなるって連絡が出来なかったの」
 まあ、遅くなって心配はしたが。
 それでもギリギリ捜索届だのなんだのがよぎる時間ではなかった。
 …いや、だせねえか。そんなもの。家族じゃないから。

 テレビを見ているとそばに座ってきた。
 家主はこの女だ。好きにすればいい。
 騒ぐのは、少し疲れた。
 逃げたいのだと思う。
 逃げれるのだと思う。

 この女が一人になるのはダメだと思う。
 隣にいるのが別のものでは嫌な気がする。

 この女が不幸になるのが嫌だと思う。
 この女を―――誰かと幸福になる方法が、俺にはわからないのに。

 肝心な時に何も言わずにすべて背負われてしまうのに。

「あのね、加茂井君、」

 なぜあんなにこじれたのかちょっとよくわからない。楽しかったからかな…(PLが)
 抱き着いた理由も実はよくわからない。それを言ってしまうと彼は今のところダッシュで逃げていくので。
 言語化できるかどうかは純潔の証明次第だね!
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